BOØWY話題作『LAST GIGS』が持つ歴史的価値とは? 関係者コメントを交え検証
1988年4月、東京ドームで行われたBOØWY最後のライブ『“LAST GIGS” LIVE AT TOKYO DOME "BIG EGG" APRIL 4,5 1988』が、未発表ライブ音源を含む全曲収録したライブアルバム『LAST GIGS -THE ORIGINAL-』として2019年6月12日にリリースされた。本作は、31年前に行われたライブ音源ながら先日、6月11日付デイリーチャートで2位、13日付では1位を記録。昭和の最後に生まれた作品が、装いも新たに未発表ライブ音源を含め、平成を飛び越え令和の時代のはじめに鳴り響いたのだ。
リリースにあわせて開催された公式初となる『BOØWY検定』も人気だ。関係者でも全問正解は難しい難問ばかりながら、コアファンの間で、全50問正解者が1,200名を超える盛り上がりが話題となった。大反響につき、エクストラとなる超難問“マスタークイズ”3問が追加されることが発表されたばかりだ。
BOØWYとは、氷室京介、布袋寅泰、松井恒松、高橋まことによる4人組ロックバンドだ。1982年にアルバム『MORAL』でデビューし、人気絶頂期である1987年12月24日、渋谷公会堂で突然の解散宣言を行った。それを受けて翌1988年4月4日、5日には、完成されたばかりの東京ドームでファンへ向けた最後のライブ『“LAST GIGS” LIVE AT TOKYO DOME "BIG EGG" APRIL 4,5 1988』を開催。その後、メンバーのソロでの活躍もあり、今なお影響力の絶えない、80年代を駆け抜けたロックバンドとして歴史に名が刻まれている。
BOØWYは解散後、一度も再結成をしていないバンドとして知られている。東京ドームでの奇跡の2日間は、言うならば早すぎる同窓会だったのかもしれない。BOØWY解散後もその影響力は衰えることなく、多くのバンドマンが彼らにの憧れ、コピーバンドを結成した。結果、後にバンドブームが勃発するなどロックが市民権を得るきっかけとなった存在だ。
1988年5月3日にリリースされたオリジナル盤ライブアルバム『LAST GIGS』は、当時ライブ開催からたった一カ月でライブアルバムとして全国流通発売された。人気絶頂期の突然の解散、会場に来れなかったファンへ向けての感謝のあらわれだったのかもしれない。結果、ライブアルバムとして異例の100万枚を超えるセールスとなり、ライブを大事にシーンを駆け上がってきたBOØWYらしい、バンド初のミリオン作品となった。
ロックの歴史を変えたBOØWY伝説のラストシーン『LAST GIGS』。当時を知る関係者たちはこのライブをどのように受け止めていたのだろうか。3rdアルバム『BOØWY』から解散までディレクターを担当した、子安次郎氏(元東芝EMI、現ユニバーサル ミュージックジャパン)は、『LAST GIGS』を目の当たりにした印象をこう振り返る。
「彼らの中では完璧にBOØWYは(解散宣言を行なった)渋谷公会堂で終わってました。なので『LAST GIGS』は誤解を恐れずに言えば“早すぎる再結成”という位置付けだったと思います。もう、各自次のプロジェクトに向けてスタートを切ってましたから。(東京ドームは)50,000人が同じ歌を同時に歌うとすごいなって、ステージサイドから観ていて思ったことが忘れられないですね。みんなが歌っているのを身体で浴びるという。それはすごく感動しました。そして、観れなかったファンのためにも『LAST GIGS』のライブアルバムは異例のスピードで一カ後にリリースすることになったんです。でも、ゴールデンウィークを挟むと物流の都合で納品はもっと早いんです。最後にまた無茶なすごいことをやりましたよね(苦笑)」
イベンターの立場でBOØWYのライブ面に注力した、中西健夫氏(株式会社ディスクガレージ 取締役会長)は、解散前夜のメンバーの様子を交えながら回想する。
「1988年は、東京ドームが完成した年なんです。東京ドームの話をもらったのは前年の『ROCK'N ROLL REVIEW DR.FEELMAN'S PSYCOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR』中かな。渋公(渋谷公会堂)で解散宣言を発表するにあたって、最後の締め方が課題となりました。東京ドームでの思い出は、初日終わったあとすぐに出て打ち上げで赤プリ(赤坂プリンスホテル)に行って。そこで、布袋さんがまこっちゃん(高橋まこと)に『「IMAGE DOWN」のリズム早いんじゃない?』ってシーンがあって。『あれ、解散するんだっけ?』って、なんかよくわからなくなりましたよね。ライブの内容を本気で話し合ってるんですよ。明日、最後をむかえるバンドが、ですよ? ライブがすべての基軸になってましたよね。それこそ、今でいうライブ時代の先駆けだったと思います。新宿LOFT~渋谷公会堂~武道館~東京ドームへ駆けあがっていく物語。でも、東京ドームって当時1年早かったらまだ無かったワケで。『じゃあ、最後どこで終わっていたんだろう?』って思うと、BOØWYというバンドの引きの強さを感じますね」
3rdアルバム『BOØWY』から解散まで宣伝面を担当した鶴田正人氏(Wooly magazine/Wooly arts代表/元東芝EMI BOØWYアーティスト担当)は、当時を振り返りながらBOØWYというバンドのスター性についても言及する。
「東京ドームで『LAST GIGS』をやると知ったのは(1988年の)年明けくらいかな。広告担当だったから割と早めに知っていたと思います。オープンしたばかりの新しい会場なのでBOØWYらしいなって思いました。しかも、キャパ10万人でも観れないファンもいっぱいいるだろうって、そこで一カ月後にライブ盤をリリースすることになったからね。発売前に音がなくてもレコード店から受注していたってことでしょ? すごいよね。BOØWYは、こんな短い期間でスターって生まれていくんだって目の当たりにしました。やっぱり4人のヒーローとしての存在感がすごかったから。売れるだけじゃなくて、音楽とファッションの先端を走っている存在としてのスター性なんか極めて洋楽っぽいし、なかなか真似ができないよね。うん、何かひとつ真似ができても、トータルには真似できないというか。ステージ衣装で着ていたジャン・ポール・ゴルチエのタイアップとかもあって、バンドシーンと文化服装なツバキハウス的なシーンの両面いけてたのもすごいよね。それでメジャーで売れていくっていう。そこがやっぱりBOØWYらしさだよね」
アルバム『BEAT EMOTION』や『LAST GIGS』のレコーディングを担当した、レコーディングエンジニアの坂元達也氏は、4人だからこそ生まれたバンド独自のサウンドについてこう振り返る。
「惹かれましたよね。ヒムロック(氷室京介)の存在感とかね。彼は甘さと激しさを両方兼ねそろえている貴重な声の持ち主なんですよ。歌も非常にうまいし、ロックバンドでこんなに歌がうまい人はなかなかいないと思います。布袋君はセンスも抜群でギタリストとして最高に素晴らしかったから。よく一人のギターで、サウンドを支えられていたなと不思議に思いますね。一人でやるんだったら歪んだ音で埋めるようなサウンドかというと、BOØWYってほとんど歪んでないんですよ。そして、そんなサウンドを支えていたのはまこっちゃんのドラムとまっちゃん(松井恒松)のベースでした。手数の多さが逆に音の物足りなさを感じさせないところがあって。まっちゃんが余計なことしないからこそ、まこっちゃんがいろんなこと出来たのかもしれないし。4人の不思議な個性が絡み合って、ライブの音の場を作り上げて行きましたよね。ドラムがタイトで手数の少ない人だともたないと思うんですよ。絡み合いとして、奇跡的な部分があったと思います。よく楽器3ピースであれだけもっていったなと感じましたからね」
BOØWYプロジェクトを総括していたプロデューサー糟谷銑司氏(株式会社アイアールシートゥコーポレーション 代表取締役)は、『LAST GIGS』開催の裏側についての貴重な証言を残してくれた。
「プロデューサーとして出した条件があったんです。『最後のコンサートは、12月24日の渋谷公会堂が終わってから考える。それまでは解散は一切秘匿する。解散を商売にしない』。この3つ。『渋公でのライブでは、コンサートが終わってから解散話をするんだから、だったら今まで支えてくれて来た人たちに向かって、どうやってサンキューを言うんだ?』ってメンバーと話して。『バンドをおっかけて、サポートしてきた人たちの身になってみろ』と。『解散は4人で決めたことだからしょうがない。でも、ファンへの感謝を込めて最後にデカいところでやれ、武道館でもダメだ』っていうのだけ決めてたの。で、そのことを何も知らないイベンターのディスクガレージから『来年、東京ドームができるんだけど、オープニングイベントを日本のアーティストでやりたいっていう話があるんだけど、糟谷さんやりませんか?』って。いや俺、武道館よりもっと大きいとこって言ったけど、武道館より大きいとこなんて無いなって思ってたんだけど、出来ちゃったんだよね(苦笑)。話を聞いたら、4月の巨人戦の初日の前に、やれる日があるからやってみないかって話になって『最後のライブは東京ドームでやる、それなら了解する』って言ったんだ。俺が了解するっていうのもおかしな話だけどさ。まぁ、でもマネージャーとして了解はする、ただしデカいところでやる、っていうね。ドーム公演は前の公演が終わってバラして、仕込んで、次の日にライブやってバラすっていう、今だったら絶対にあり得ないスケジュールでやったんだよ。空き日なしで、しかも2デイズでね。最後にたまたま転がり込んできたのが東京ドームだったんだ」