ビリー・アイリッシュ、なぜ“普段着”でステージに? 女性アーティストによる衣装の変革
一方その頃、男性は
大丈夫、もうちょっとでビリー・アイリッシュの話に戻る。でもここで一度、同時代の男性ソロアーティストに思いを馳せておきたい。ドレイク、ケンドリック・ラマー、The Weeknd、ジャスティン・ビーバー、エド・シーラン……多少派手だとしても、そのまま街中を歩いていて不自然でないくらいカジュアルな衣装のアーティストばかりだ。街中を歩いていて「何だあいつ」となるほど衣装らしい衣装なのはブルーノ・マーズと数人くらいか。いわゆる衣装らしい衣装を着る男性ソロアーティストとなると、マイケル・ジャクソンやプリンスなどまで遡ることになりかねない。
さて、ここで試してみたいのが、男性ソロアーティストも女性ソロアーティストの"王道の衣装"と同じ考えかたの衣装を着るとしたどうなるか、という思考実験だ。つまり男性の身体のフォルムにフォーカスした、マスキュリンなセクシーさを志向した衣装。ドレイクやブルーノ・マーズがビヨンセやリアーナのようなアティチュードで自分自身を打ち出す衣装を着るとしたら?
どうだろう。筆者の脳裏に浮かんだのはあのユニタード姿のフレディ・マーキュリーだ。あれはセクシュアルな表現をしようという明確な意図に基づく衣装だし、当時それなりに大人の眉をひそめさせるものだった。程度はそれぞれにせよ、プリンスやマイケル・ジャクソンの衣装にも同様のショッキングなリアクションはあっただろう。男性アーティストがそういった衣装を纏おうとするときには、かなり強いセクシュアルな意味が生まれる。
となると、女性ソロアーティストが極めて王道の選択肢としてセクシーな衣装を着ることを、いつまでも当然視していていいんだろうか? それに、セクシー路線でないにせよ、何らかの衣装らしい衣装を着る女性ソロアーティストがほとんどだ。男性ソロアーティストはほぼ普段着でステージに上がるのに。これって当然なんだっけ?
ようやくビリー・アイリッシュの話ができる。
女性ソロアーティストといえばセクシーな衣装、まあセクシー路線でなくとも何らかの衣装は着るわな、といった連綿と続く"当たり前"が抑圧として機能していた面がないか? そう気づかせてくれたのがビリー・アイリッシュだ。
新顔の女性ソロアーティストである彼女自身そうした抑圧に直面し、その回答としてカジュアルウェアを着てステージに上がっている側面があることは、彼女のこれまでの言動から推測できる。
特別な意味を持たないという意味
ビリー・アイリッシュはあまり笑顔を見せない。それは単なる性癖ではなく「女の子は笑顔でいることを強いられるから(そのアンチテーゼ)」と、明確な意図のあることだと語っている。また「声を上げられない人たちの声になること」を意識して活動しているとも話しており(参照)、衣装についても同様に意図を持って臨んでいると考えるのはそう不自然なことではないだろう。
これまたざっくりなカテゴライズだけれど、ビリー・アイリッシュのファッションはラグジュアリーストリートと呼ばれるスタイルを基調にしたものと認識している。
ラグジュアリーストリートは、一見ストリート系ブランドのものに見えるようなハイブランドのカジュアルアイテムでコーディネートを構築したり、ストリートファッションとヴィトンのモノグラムのアイテムをかけ合わせたり、Off-White(オフホワイト)やA-COLD-WALL*(ア コールド ウォール)といったストリートとコレクション双方にアクセスできるブランドのアイテムを使ったりするようなスタイル。2014年頃からカニエ・ウエストやジャスティン・ビーバーのスタイルを指してそう言われるようになってきたような……まあそんな感じだ。
ラグジュアリーストリートの厳密な定義は今回の本題ではない。肝心なのは、ビリー・アイリッシュの服装はラグジュアリーストリートという体系の中にある(と考えられる)もので、彼女固有のファッションではないということだ。レディー・ガガのように彼女しかやっていない・彼女が始めたファッションではなく、同時代を生きる若者に広く普及しているスタイルの範疇。ファッション自体に彼女固有の強い自己主張があるわけではなく、同年代の他の若者と同じような普段着である。普段着であるということが肝要だ。つまり、普段着でステージに上がることで、前述の"ステージ衣装を着る"という慣習に対してアンチテーゼを提示していると考えられるということ。
もう1点注目なのが、ジェンダーレスなサイジングとアイテム選びだ。ビッグシルエットのTシャツや厚手のスウェットシャツなど、ボディラインが見えないようなトップスが多く、スカートを穿いた姿もほとんど見られない。どこまで意図的なのかは本人以外知りえないが、そうした"セクシー"の価値基準に乗らない姿勢が見る人に開放的な印象を与え、エンパワメントとして機能している部分は大いにあるはずだ。
さらに言えば、ファンと同じようなカジュアルな装いでいることで、身近な存在であり続けようとするアティチュードの発露とも考えられる。
この点については、ロードが『Royals』で「キャデラックを乗り回したり、リッチなホテルで豪遊する生活なんて私たちのリアルじゃない」と歌って共感を得たところから地続きな若い時代感覚と言える。