映画『ボヘミアン・ラプソディ』だけでは語り尽くせない、クイーンというバンドの功績と足跡
11月9日に公開され、国内映画興行ランキングで1位を独走するなど大ヒットを記録している『ボヘミアン・ラプソディ』。クイーンのボーカリスト、フレディ・マーキュリーの半生をドラマティックに描いたこの作品が、単にクイーンやブリティッシュロックの熱心なファンだけにアピールするような内容だったら、これほどのヒットにはならなかったろう。それはフレディという特異な生い立ちとキャラクターを持った稀なるカリスマ・スターの光も影も過不足なく描き、様々なエピソードを(時に多少の映画的演出=事実の改変や誇張はあれど)無駄なく効率的に配列し、伏線も残らず回収した脚本の巧みさ、クライマックスの『ライヴ・エイド』の完全再現も含めた時代考証の正確さ、そして主にライブシーンを中心としたダイナミックな演出の見事さなど、いくつもの要因がある。
とはいえ、フレディというカリスマの生涯に絞り込んだ内容ゆえ、クイーンというバンドが英国ロックに残した功績や足跡などについては、映画で十分に語られているとは言いがたい。そこで本稿では、クイーンというバンドが主に70年代のブリティッシュロックにおいてどんな位置づけだったのか、当時リアルタイムでクイーンの登場を体験した筆者の観点から振り返ってみたい。
ミクスチャーのセンスの特異さ
1stアルバム『戦慄の王女』(1973年)、2ndアルバム『クイーンII』(1974年)、3rdアルバム『シアー・ハート・アタック』(1974年)までの初期クイーンは、ハードロック、プログレッシブロック、グラムロック、フォークロック、ポップロックなど、70年代以降のブリティッシュロックのエッセンスを片っ端からぶち込んだような、いわば70年代以降の英国ロックの総まとめのようなバンドだった。そこに主にフレディから発していた古いミュージカルやジャズ、スタンダードポップス、ラグタイム、オペラなどの非ロック的要素を加えて音楽性を拡大していったのが『シアー・ハート・アタック』から『オペラ座の夜』以降の中期クイーンなわけだが、彼らの真のユニークさは、音楽性の多彩さそのものではなく、それらの音楽性をまとめあげたミクスチャーのセンスの特異さにある。凡庸なプログレバンドなら、あるいは大仰なロックオペラやコンセプトアルバムが流行った当時なら、もったいぶって10数分あるいはアルバム1枚かけて展開しそうな大量のアイデアを、惜しげもなく数分間のポップソングに集中投下した情報量の多さと密度、超高速のCPUのような情報処理能力の速さが衝撃的だったのだ。パンクロックの登場時もそうだったが、革新的な音楽はまず並外れた時間軸の加速を伴って訪れる。レッド・ツェッペリンやイエス、ビートルズといったバンドが根っこにあるのはわかったが、同時にそれらのバンドをすべて過去のものとして葬り去りかねない強烈なスピード感と新鮮なインパクトがあったのである。『クイーンII』収録の「オウガ・バトル」〜「フェアリー・フェラーの神技」を初めて聴いた時の衝撃、「輝ける七つの海」の、視界が一気に開けていくような新鮮さは、未だ忘れがたい。
ヨーロッパ的人工美ともいうべきクイーンの音楽性
もうひとつデビュー当時のクイーンのユニークさといえば、黒人音楽、特にブルースやR&Bの要素が希薄なこと。前身バンドのスマイルではブルースっぽい曲もやっていたが、フレディが加入してからのクイーンは、おそらくは意図的にそうした要素を排除してきた。フレディの歌唱は(たとえばミック・ジャガーやロッド・スチュワートのような)ブルースやR&Bの影響は希薄だったし、ブルースに根ざした泥臭いギタープレイが主流だった当時、ブライアンのプレイは圧倒的に個性的で斬新だった。それはおとぎ話的な世界観に貫かれたファンタジックでプラスティックなヨーロッパ的人工美ともいうべきクイーンの音楽性にブルース的なものは不要なものだったからだ。もっと独断的に言い切れば、そうした黒人音楽の要素を60年代の産物として排除していったからこそ、クイーンは70年代英国ロックの覇者として君臨できた。例を挙げるなら、『シアー・ハート・アタック』収録の「ナウ・アイム・ヒア」である。元をたどればチャック・ベリー・スタイルの何の変哲もないオールドスクールなロックンロールに過ぎないこの曲を、独特すぎるギタープレイ、派手なエフェクト、「アァ、アァ」というファルセットのコーラス、目まぐるしく展開するドラマティックな曲構成などで、ピカピカのモダン・タイムス・ロックンロールに仕立て上げたのがクイーンの新しさだった。その点で、当時ライバルと目された米国のエアロスミスが、ブルースやロックンロールなど黒人音楽のルーツにどこまでも忠実だったのとは対照的と言える。もっとも黒人音楽の影響という点では、クイーンはのちに時代の流れの中でファンク、ディスコ、エレクトロといった要素を加えることで大きく変身し、賛否両論を呼んだ。一方エアロスミスも、朽ち果てる寸前だった80年代半ば、ラップ/ヒップホップという全く新しい黒人音楽の登場でにわかに再評価され(ランDMC「ウォーク・ディス・ウェイ」)復活を果たしたというのも面白い符合である。
少なくとも70年代半ばまでは、英国ロックの華やかで豪奢な集大成だったクイーンは王道中の王道の、そのまたど真ん中を歩いているようなバンドだった。だがそこに降って湧いたように訪れたのが、パンクの時代の到来である。クイーンだけでなく、ローリング・ストーンズも、ザ・フーも、デヴィッド・ボウイも、レッド・ツェッペリンでさえ、当時のエスタブリッシュたちの多くがこの突風のような動きに無関心を決め込むことができなかった。『ニュース・オブ・ザ・ワールド』(1977年)や『ジャズ』(1978年)といったアルバムは、そんな時期に生まれた作品だ。それまでのクイーンの緻密に作り込んだアルバムとは一転して、荒々しくシンプルな作風は、明らかにパンクの時代を意識したものだった。そしてこれ以降しばらく、クイーンは外部の音楽動向やシーンの変化に左右される時期が続く。ソウル/ファンク/ディスコやニューウェイブ、エレクトロを導入した『ザ・ゲーム』(1980年)や『ホット・スペース』(1982年)といったアルバムがそれだ。それぞれ聞き所のある作品ではあったものの、時代に合わせてモデルチェンジを繰り返すうちに一番大事なクイーンの個性が薄れていったことは否定できない。当時パンク/ニューウェイブの刺激に首までどっぷり浸かっていた筆者にとって、クイーンは時代遅れの恐竜のように映っていたのである。