荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第3回
荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第3回:YMOとアフリカ・バンバータの共振
SFは、どういわれようと、つねにどこかへのチケットである。モーリス・ルナールを敷衍するならば、このジャンルは人びとを未知の世界へと送りこむのだーージャック・ボドゥ
Al Greenの”Take Me To The River”をカヴァーした理由は、僕たちはブラック・ミュージックを発想の源泉にしていたのに、当時僕たちを好いてくれた層ときたらブラック・ミュージックを馬鹿にしていたからだ。もし有名な曲をカヴァーしたら自分たちのヴァージョンは比較されて興ざめで、意味なかっただろう。でも、誰もAl Greenの“Take Me To The River”を知らなかった。みんな僕たちが実際のあの曲を書いたと信じていて、好きになった。あとになって僕たちは『あは、君らはブラック・ミュージックを好きになったね』と言えたんだーーChris Frantz、Talking Heads/Tom Tom Club
1970年代の半ば以降、ブロンクス、ニューヨークにて、1976年にGrandmaster Flash & The Furious FiveとFunky Four Plus One、1978年にはCold Crush Brothersといったヒップホップの基礎を形作るグループらが結成されていった。
1978年には、世界で最初のラップが収められたアルバム・レコード盤がリリースされた。予期せぬ大当たりでブロードウェイに進出した、劇作家・作曲家のElizabeth Swadosのミュージカル『Runaways』のサウンドトラックだ。Peter Brookなどと働いた経験を持つ彼女の劇場作品の多くは、ミュージカルであっても、題材は人種差別など社会問題を扱い、その音楽の多くは市井から持ち込まれたもので、業界基準からはかけ離れていた。サウンドトラック盤に収められた曲「Blackout」は、ヒップホップのファウンデーションに影響を与えたと謂われている1977年のニューヨーク市での停電についての、ミッド・テンポでパーカッシブなトラックのラップである。
ポップ音楽ではあるが、延々と続くビートにメロディを持ったボーカルではなくお喋りが乗るというラップが、初めてその誕生の地の外側に出たとき、演劇作品世界の裡であったというのは、そのおよそ10年後に原宿のラフォーレで行われた宮沢章夫とシティボーイズを中心とした演劇ユニット「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」に導入された、いとうせいこうとゲットーブラスター(巨大なラジカセ)をやはり思い起こさせる。
いわゆる“オールド・スクール”ーーヒップホップ初期のパーティのフライヤーと当時の様子を捉えた写真を集めた分厚い『Born In The Bronx』の著者であるヒップホップ歴史家、ヨハン・クーゲルバーグの2006年のこのレコードの発見により、長らく最初のラップ・レコードと謳われていたFatback Bandの「King Tim III」はそうではなくなった。
Fatback Bandがラップ・レコードを制作したのは、ラップ/ヒップホップがダンス・ミュージックだったからだ。Fatback Bandは、1960年代末のそのデビューからファンク、そしてディスコへと転じながらダンス・ミュージックを演奏していたバンドだ。それこそ1970年代のサウス・ブロンクスのヒップホップ創世期をドラマ化したNetflixの『The Get Down』では、ヒップホップを発見し友だちとクルーをつくる主人公と、彼が恋をした少女が歌い始める華やかな成功を志向するディスコは異なった2つの音楽、場、それに価値として描かれている。ヒップホップのこの位相は、優れて日本のポップ・ミュージックとしてディスコを解釈した角松敏生にして、先駆として1980年代はじめにヒップホップに接近させながら、彼をそこにくぎ付けにしなかった理由でもある。ヒップホップがそれまでの音楽と異なっていたからだ。
ヒップホップ/ラップは、1970年代に、メタ的なーー録音芸術として著しく自己参照的な性格を伴って登場した、幾つかのポップ音楽ジャンルのひとつだ。それはメディア/ポピュラー音楽研究のジェイソン・トインビーが著書『ポピュラー音楽を つくる』で記しているポップ音楽の再帰性に根ざしているーー“私の論じたように、ポピュラー音楽制作が常軌を逸しているのは、その継続的な技術的再帰性で ある。ポピュラー音楽とは、身体と機械の関係が、新しい、はらはらするようなやり方で再発明されている領域”だ、と。