レジーのJ-POP鳥瞰図 第19回
Mr.Childrenはなぜ今“普通のロックバンド”を謳歌? 25年のキャリアから考察
ベテランミュージシャンと固定化されるイメージ
「90年代以降の日本のポップスの歴史を再体験できる」と先ほど書いたが、そういった意味では今作に収録されている2010年代の楽曲に「90年代のミスチルのような“大ヒットしたシングルCDの楽曲”」がないのも「日本のポップスの歴史」を正しく反映しているように感じられる。これについてはバンド単体の問題というよりも、音楽産業が変容する中でわかりやすいヒット曲が生まれづらくなっていたことの方が要因として大きいだろう。
「ヒット曲が出づらい」という時代認識はここ数年においてJポップの状況を考えるうえでの前提になっていた感があったが、「恋」(星野源)や「前前前世」(RADWIMPS)を筆頭とする2016年に生まれたいくつかのヒット曲はそんな空気を変えてくれそうな予感を漂わせていたし、2017年に入ってもそのムードは継続していると言って良い。マスにいきわたる音楽の価値が再度認められたこのタイミングで、ミスチルは改めて「国民的な音楽」を届けてくれるのではないかと個人的には期待している。
しかし、ここ最近のミスチルの動向を追っていると、そういった期待とは距離感のあるアクションに精力を注いでいるようにも見える。二人三脚でヒットを生み出してきた小林武史とのタッグ解消とセルフプロデュースへの移行、地方をくまなく回るホールツアーの実施、Zeppでのライブハウス対バンツアーやアーティスト主催フェスへの出演といったロックシーンへのコミット……一方ではドームツアーや朝ドラの主題歌などの「国民的バンド」としての責務を果たしながら、より「普通のロックバンド」としての活動を謳歌しているような印象を受ける。
このような動きをどう解釈するかについてはファンの数だけ意見があると思う。ミスチルを原体験として音楽にのめり込み、彼らがまさに社会のあり方を変容させていく様を間近で見てきた自分としては、「今の時代に大衆と向き合うとはどういうことか?」を考えるのに全てのクリエイティビティを集中させてほしいとも身勝手ながら感じてしまう。ただ、急激なブレイクの中でいきなり時代の中心に放り込まれた彼らが改めてロックバンドとしての自分たちを再定義しようと志向するのも理解できる。
「マスに向けたアクション」と「これまでとは異なる毛色のアクション」を並行させている今のミスチルからは、「既存のイメージ」と「新しいミスチル像」のバランスをどうとるか腐心しながら活動内容を検討している様子が伺える。ここで参照したいのが、昨年公開された清春のインタビューである。黒夢やsadsなどこれまでの活動の先入観で自分のことを語られるケースが多いという清春は、自らが置かれている状況についての苦悩をこう語っている。
「(筆者注:自分のことを)知らない人が(筆者注:自分の音楽を)聴くとしたら再生回数の多いものになる、そうすると必然的に昔のヒット曲になっちゃうんですよね。それを例えばTwitterとかに貼られると、それが現在っぽい形で見えちゃうんですよ。なので、何をやってもずっと昔のイメージが消えないというか。もちろんありがたいことでもあるんですけど、クリエイトするほうからすると、なぜ新譜を作るのかっていうのがたまにわからなくなる時があるんですよね。長く続ければ続けるほど、いつまでも状況が変わらないことがわかるから、もう(新譜を)出しても意味ないんじゃないかなって。」
この発言からは、「活動が長くなればなるほど、そこまで培ってきたイメージが固まってくること」「さらに最近では、YouTubeやSNSなどによってそのイメージを再生産する構造がますます強固になっていること」「それによって、今までとは異なるイメージを持ってもらうことが新規ファンに対しても困難になっていること」がわかる。これまでの活動の蓄積が多くの人に認められる、という意味では清春も触れている通り、決して悪い話ではないのかもしれない。一方で、「新しいことをしても意味がないのでは」というベテランミュージシャンの閉塞感は、今後のポップミュージックのあり方に芳しくない影響を与える可能性もある。「若いミュージシャンが新しいことをやり、ベテランは過去にやったことを再生産すればよい。それでみんな十分満足する」というような構図ができあがってしまったら、間違いなくシーン全体でのアウトプットの幅は狭くなる。