2ndアルバム『Noah’s Ark』インタビュー
ぼくのりりっくのぼうよみが語る、現代版“ノアの方舟”の行方「テクノロジーを使った上で、意志の問題を考えたい」
ぼくのりりっくのぼうよみが1月25日、2ndアルバム『Noah’s Ark』をリリースした。タイトルからも分かるように、旧約聖書の「ノアの方舟」のエピソードに着想を得たという本作は、現代における“地上の堕落”とその救済をテーマとしている。と同時に、作品中では“ぼくりり”史上もっとも色彩豊かでポップなサウンドが鳴っており、そのテーマの重さとは裏腹に、不思議な明るさと爽快さを持つアルバムでもある。ヒップホップ、エレクトロ、ラテンジャズまで網羅したサウンドで、彼はどんな世界を描こうとしたのか。作品づくりの前提となる“現代をどう捉えるか?”といった話から、実際の創作プロセスまでじっくりと話を聞いた。
メッセージや物語を伝えるうえで大事なのは、カメラの移動
ーー新作『Noah’s Ark』は、想像以上にコンセプチュアルで練り込まれた作品です。前作『hollow world』が粒立った曲の集合体だったとすると、今作は大きなテーマのもとで楽曲が集められている。
ぼくのりりっくのぼうよみ(以下、ぼくりり):そうですね。『Noah’s Ark』っていうタイトル自体も、「ノアの方舟」という聖書のエピソードから取っています。現代でノアの方舟の話が再現されているんじゃかな……というところから始まって。『ディストピア』のインタビューの時も、情報とどう向き合うか、みたいな話もしましたよね。
ーー自分たちは情報の洪水の中にあり、それを強く肯定するわけでも否定するわけでもなく、ギリギリのところにいることに自覚的でありたいという。
ぼくりり:それをもうちょっと深く掘り下げたというか。今回はアルバム1枚でノアの方舟のエピソードを再現するみたいなかたちをとっていますね。1から8曲目までが1部で、9曲目が2部で、最後の曲が第3部という頭でっかちの3部構成なんですけど(笑)。最初の8曲ではいろんな人々が堕落する中で、聖書のノアさんみたいな真面目にけっこう頑張ってる人もいるぞ、みたいな。いろんな話が入っているっていうのが1~8曲で、9曲目の「Noah’s Ark」で実際洪水が起きて選別が行われるぞ、と。10曲目がその後っていう構成になっています。
ーー今作では、曲ごとでいろんな立場から「洪水」を観ていくという構成になっていますね。
ぼくりり:メッセージや物語を伝えるうえですごく大事なのは、カメラの移動だと思っていて。1人称的な目線でガーッといっている曲もあれば、3人称的なところから俯瞰して「状況はこうなっています」という曲もある。9曲目の「Noah’s Ark」とかはそういう傾向が強いですね。ただ、第3者目線から「こういう状態です」「お伝えしています」「現場はこうです」みたいな、そういう曲だけだとあんまり、具体性をもって自分の中に取り込めない。わかるけど、実感としては認識できないみたいなところがあるなと思って。その点、1人称で自分の目線で書いた曲があるとみんなも受け入れやすいし、感情移入しやすいかなと。そういう意味では「Be Noble」はすごい1人称的な曲ですね。
ーー「Be Noble」では「前に進む」というフレーズもあります。
ぼくりり:この曲の人は、結構がんばろうっていうタイプの人なんで。
ーーそして「shadow」以降の曲ではカメラがグッと引いて、混乱した今の状況っていうのがディープに、いろんな角度で描写されていきます。
ぼくりり:「情報の洪水が」もそうなんですけど、その他にもいろんな原因によって、多くの人は「クオリア」を失って、哲学的ゾンビになっちゃっているなって思っていて。で、その中で感情に支配されちゃうっていうのがすごい大きいなと。感情と意志ってわりと一緒にされがちな気がするんですけど、実は全然違うと思うんです。例えば「shadow」は、デキ婚の歌なんですけど(笑)。
ーーそこまでは読み取れなかった(笑)。
ぼくりり:知り合いのエピソードを参考にしました(笑)。一瞬の衝動、刹那的な感情に全部身を委ねてしまうみたいなものを描こうと思って。刹那的な感情に流されるというのは、意志の強さが働いていないことでもある。「Newspeak」だと「言葉がどんどん少なくなっていって思考が制限されてしまうよ」みたいな。全部「ヤバイ」とか「ウケる」しかなくなって、最初はいろんな感情を一言で表せる便利な言葉だったはずが、気付いたらその言葉しかなくて、伴う意志がなくなってしまっている。
ーー「感情と意志は違うものだ」という話、もう少し詳しく聞かせてもらえますか。
ぼくりり:ポスト・トゥルースという有名な言葉があって、感情で何かを判断しちゃう、そこに意志とか理性が絡む余地がないっていう。人間って感情に負けすぎ問題みたいなところがあって、ニュースとかの真実はどうあれ、自分が望むストーリーや感動しそうなものを望んで受け入れちゃうみたいな。例えば、この前もトランプが会見でニュースサイトか何かに文句を言うみたいなのがあったじゃないですか。で、Twitter上で「トランプがすごい良い感じのこと言ったぞ」みたいな文章が出回っているんですけど。それもまた本当のことじゃないというか、本当のことを切り取った姿にすぎなくて「トランプが悪者っぽくされていたけど、実はメディアが悪者だったんだ」っていう構図がみんな好きだから、そういうふうに加工して切り取るとみんながシェアしてくれるぞと。本当の姿というよりは、単にみんなが見たい姿が広がっていく姿勢とか、そういうところがまさにポスト・トゥルース的だなと思うんです。そういうときって人間の感情が何もかもに先行していて、そういう状態って意志がないんじゃないかな。自分が喜ぶとか、嬉しいとか、感情を一番に優先してそういうのになってしまうのは、なんかあれだなって。
ーー感情と意志との関係については、オウンドメディアにおける落合陽一さんとの対談が面白かったですね。「自由意志」について議論する中で、落合さんは機械と人間が融合していけば、意志のあり方もこれまでとは違うものになっていくだろうという立場。自由意志を重視する、ぼくりりの立場との違いが出ていて、議論として読み応えがありました。
ぼくりり:あの対談で自分の中で、「意志」の定義がアップデートされましたね。落合さんの「自分の文脈を確立することが大事だよ」という話は、本当にそうだなって思って。たとえば、カーナビに行きたいところを入力して、ナビに従って運転している人間って、ある種機械なんじゃないかという意見があるけど、それはそうかなと思う。でも、目的地の入力をちゃんと自分でしていたらいいんじゃないかなというふうに思っていて。
ーー「ここに行きたい」という意志?
ぼくりり:そうです。「ここに行きたい」っていうのをちゃんと自分で決めて、それに則って動いているときの人に「自由意志」って宿ってるんじゃないかなと決めました(笑)。