栗原裕一郎の音楽本レビュー 第15回:『誰が音楽をタダにした?』

ポピュラー音楽に関わるすべての人にとっての必読書 栗原裕一郎の『誰が音楽をタダにした?』評

ダグ・モリスとヒップホップ

 2000年前後のこの時期、売れ筋の音楽はヒップホップだった。ドクター・ドレー、スヌープ・ドッグ、2パック、ジュヴナイル、リル・ウェイン、ジェイ・Z、エミネム、50セント、カニエ・ウェストといった名前が本書には登場するが、ヒップホップの世界を実質的に仕切っていたのは、還暦を超えた白人の音楽エグゼクティブであるダグ・モリスで、いま名前のあがったラッパーは全員、モリスがCEOを務めるユニバーサル・ミュージックの傘下に収まっていた。

 モリスは独特の信念で絶え間なく記録的なヒットを生み続けてきた。信念といっても音楽的なものではない。それは数字だった。とはいえ彼は、ビルボードのチャートもラジオの再生回数も、評論家の評価も当てにしていなかった。彼が見ていたのはローカルで何が売れているかという数字であり、市場調査だった。

 90年代に入ってすぐ、ヒップホップが音楽産業のトレンドにしてドル箱になるとモリスは目を付けた。モリスはまずドクター・ドレーと彼の所属レーベルである<デス・ロウ・レコード>を手中に収めた。

「売れっ子ラッパーを獲得すると、連鎖反応が起きてさらに多くの売れっ子を獲得できた。モリスのアーティストの中で今いちばん売れているラッパーたちも、もとをたどれば何年も前に獲得したアーティストがきっかけだった。1996年のインタースコープの買収で獲得したのがドクター・ドレーで、それが1998年のエミネムの獲得につながり、2002年の50セントにつながっていた」

 かくしてヒップホップのほぼ全体がモリスの掌握するところとなるのだが、海賊どものシーンがリークのターゲットとして何より好んだのもヒップホップであり、グローバーはそのすべてを盗み出せる状況にいたのである。

mp3の想定外の普及

 mp3という技術は実は1995年に死にかけていた。mp2との規格戦争に敗れつつあったのだ。mp2の次がmp3のように見えるが両者はまったく別の技術で、mp2はフィリップスが、mp3はカールハインツ・ブランデンブルクが指揮を執るドイツの公的研究所フラウンホーファー協会が開発したものだ。

 mp3の技術は音質、圧縮率の両方でmp2よりも優れていたが、優れているからといって規格戦争を勝ち抜けるとは限らない。ビジネスに疎い学者の集まりであるフラウンホーファーは思惑渦巻く業界で負けを込ませるばかりで、1995年のある重要な会議にて、mp2に対する完全敗北に近い決定を下されてしまった。ブランデンブルクはmp3技術開発に13年の歳月を費やしていた。

 規格戦争に負けたmp3だったが、ホッケー・リーグNHLの放送技術に採用されており(初のクライアントだった)、かろうじて命脈を繋げてはいたものの利益を上げるにはほど遠かった。

 現在のサブスクリプション・サービスのようなデジタル・ジュークボックスのアイディアを音楽産業に提案してもみたが、CDの高い利益率と蜜月にあったレコード会社は、それを損ねる恐れのある技術には黙殺を決め込んだ。というより音楽産業は、ブランデンブルクのmp3がどれほど破壊的なイノベーションであるか、このときまったく理解していなかった。

 だが、ブランデンブルクもまた、自分が何を作ってしまったのか理解していなかった。フラウンホーファーが手当たり次第にmp3を売り込んでいたなかに、音楽関連のビジネスマンがいた。

 彼はmp3を見て、「自分がなにをやってのけたか、わかってる?」「音楽産業を殺したんだよ!」と叫んだが、ブランデンブルクは彼が何を言っているのかわからなかった。

 ブランデンブルクは一般ユーザーのニーズを掘り起こそうと、ユーザーが自分でCDからmp3を作成できるエンコーダー「L3enc」と、mp3を再生できるアプリケーション「Winplay3」をシェアウェアで配布したが、まるで普及しなかった。値段を下げエンコーダーを無料にしても事態は変わらなかった。再生するmp3ファイルがないのに再生ソフトを買う人はいない。mp3ファイルが普及するにはエンコーダーを広めなければならないが、それには再生ソフトが行き渡っている必要がある。「それは、典型的な『卵が先か鶏が先か』の問題だった」。

 NHLの放送での性能が好評で契約する企業が多少現れて、mp3というフォーマット自体の死滅は免れたものの、コスト回収にはほど遠く、1996年にフラウンホーファーはmp3の開発をやめ、次の技術「AAC(アドバンスト・オーディオ・コーディング)」へ移行した。

 ブランデンブルクはmp3を見切ったわけだ。だがそれと前後して、自分たちがまったく予想もしなかった、存在すら知らなかった場所で、とてつもなく普及していることを、青天の霹靂のように知らされる。

 アンダーグラウンドのシーンで、違法コピーを生成・流通するためのツールとして、L3encとWinplay3は定番となっていたのである。

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