集中連載:90年代ジャパニーズヒップホップの熱狂 第1回

90年代ヒップホップ集中連載1:元CISCOバイヤーが語る、宇田川町が“レコードの聖地”だった頃 

 ジャパニーズヒップホップが興隆し、日本語ラップやクラブカルチャーが大きく発展した90年代にスポットを当て、シーンに関わった重要人物たちの証言をもとに、その熱狂を読み解く書籍『私たちが熱狂した90年代ジャパニーズヒップホップ(仮)』が、12月上旬に辰巳出版より発売される。YOU THE ROCK★、Kダブシャイン、DJ MASTERKEY、CRAZY-A、KAZZROCKといったアーティストのほか、雑誌『FRONT』の編集者やクラブ『Harlem』の関係者などにも取材を行い、様々な角度から当時のシーンを検証する一冊だ。

 本書の編集・制作を担当したリアルサウンドでは、発売に先駆けてインタビューの一部を抜粋し、全4回の集中連載として掲載する。第1回は、渋谷・宇田川町が“レコードの聖地”と呼ばれていた時代に、日本語ラップをいち早く盛り上げたレコードショップ「CISCO」にてバイヤーをしていたDJ YANATAKEが登場。当時のレコードショップがシーンとどのように関わり、影響を与えていたのかを語ってもらった。

「MUROくんに認められるかどうかは、大きな意味があった」

 

――CISCOで働き始めたきっかけは?

YANATAKE:中学生のときに、いとうせいこう & TINNIE PUNXの「東京ブロンクス」を聴いてヒップホップが好きになったんだけど、インターネットもない時代だから、情報を得るためにはレコードショップに行くしかなかったんですよ。雑誌も『Fine』や『CUTiE』にちょっと情報が載っているだけだったし。そうして通い始めるんだけど、中高生のころだからお金もなくて、昼食代や交通費をケチって貯めた2000円でやっとレコードを1枚買う、みたいな感じだった。苦労して買ったレコードだから、帰りの電車でもずっと背面のクレジットを読んでいたり。結局はそれが知識になるんだけどね。そのうちに店員に顔を覚えてもらえて、92年に「バイト募集するんだけど、どう?」って誘われたんです。

――CISCOの黄金期が訪れる少し手前ですね。

YANATAKE:そのくらいだと思います。最初の1年間はアメ横にあった上野のCISCOで働いていて、バイヤーの仕事もそのときからやってました。当時のCISCOはリトル・バード・ネイション(以下LB)の流れが強くて、僕が入ったときは、ヒップホップのメインバイヤーはBOSEくんの弟で、TONEPAYSっていうグループをやっていた光嶋崇くんだった。光嶋くんはすぐ出世して本社に行っちゃったけど、キミドリのクボタタケシもいたり。当時の渋谷店はクボタくんと四街道ネイチャーの北&澤(KZA)がバイヤーをやっていたんだけど、クボタくんが辞めることになって渋谷店が人手不足だっていうことで、俺が異動することになった。当時はマンハッタンレコードやDMRも勢いがあったけれど、俺はCISCOが一番だと思って働いてましたね。

――YANATAKEさんが上野から渋谷に異動したタイミングで、光嶋さんやクボタさんが店からいなくなったということで、LB寄りから変化はありましたか?

YANATAKE:いや、俺はどこにも属していなかったし、派閥の意識もなかった。だけど、MUROくんに認められるかどうかは、渋谷で生きていく者にとってすごく大きな意味があった。渋谷に異動したとき、俺の前任はクボタタケシで、同僚がKZAで、2人とも知識量が半端じゃない。当時のヒップホップはサンプリングが主流だから、パッと聞いて「これあの曲のネタだよね」みたいな感じだし、会話が難しいの。俺もベーシックなものはもちろん知っていたけど、彼らに比べれば全然詳しくないし、知ったような顔をするしかなかった。それに、俺は元ネタというよりは、ヒップホップの方が好きだったんだよね。カバー曲の場合はオリジナルを聴いたら、「やっぱりこっちの方がいいな」と思うことは結構ある。だけど、サンプリングというフィルターを通すと、不思議とオリジナルよりかっこよく聴こえるんですよね。例えば、デ・ラ・ソウルの「Me, Myself & I」を聴いて、その後に元ネタのファンカデリック「(Not Just) Knee Deep」を聴くと、俺にはデ・ラ・ソウルの方が圧倒的にかっこよく聴こえる。それである日、元ネタの知識で勝負しても彼らには到底勝てないと悟って、誰よりも新譜に詳しくなろうと考えたんです。当時はインターネットもないから、一番早い情報はレコードショップに届く卸業者からのFAXでした。それを一番最初に見るのは僕だし、レコードが入荷して、それを一番最初に聴けるのも自分。だから、とにかく新譜をチェックするようにしたら、MUROくんとかにも認めてもらえるようになった。「新譜のことならこいつに聞いておけば間違いない」みたいになって、バイヤーとしてはなんとかうまくいったんだと思います。それこそ「Only The Strong Survive」の精神だよね。

――当時は、DJたちも含めて、みんながバイヤーを頼りに新譜の情報を得る時代でしたね。

YANATAKE:97年にHARLEMが立ち上がった時も、そこのDJは全員、僕のお客さんだった。もちろんみんなCISCOだけじゃなくていろんな店を回っていたと思うけど、CISCOに来ていない人はいなかった。当時はみんな本当にたくさんレコードを買ってました。月10万とか当たり前に買っていたと思う。

――当時のYANATAKEさんはDJの道に進もうとは思わなかったんですか?

YANATAKE:DJ WATARAIが高校の同級生で仲良くしていたんだけど、当時はちょっと擦れればすごいっていうレベルで。うちの兄貴がターンテーブルを持っていたから、WATARAIくんがうちに来た時に俺が少し擦ってみせたら、彼はいきなりジャングル・ブラザーズの2枚使いをガンガンやり始めて、その瞬間に「あ、俺にDJは無理だ」と思ったんです(笑)。こんなすごい奴がいるんだったら、俺はDJを目指すよりはレコードショップ店員の方がいいかなって。

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