香月孝史『アイドル論考・整理整頓』 第十六回:『AKB48 選抜総選挙』
葛藤やためらいも…AKB48のメンバーは、いかにして『選抜総選挙』と向き合ってきたか?
AKB48グループの選抜総選挙は、同グループ発のイベントとしては現在、最も世間の注目を集めるものになっている。「注目」というのは、もちろん地上波テレビでの開票イベント中継などにみられるストレートな盛り上がりも意味するが、また同時に、ファンの購買行動と連動した投票によって順位が可視化されるその構造をめぐる是非という点でも、さまざまに注目され続けてきたのが選抜総選挙である。ここで重要なのは、その論争的なイベントの意義や問題性について最も向き合ってきたのはおそらく、当事者たらざるをえないAKB48グループ所属のメンバーたちである、ということだ。
48グループに所属することは、選抜総選挙というイベントを全面的に肯定することとイコールではない。所属メンバーたちは、選抜総選挙というイベントへの戸惑いや屈託を、しばしば率直に表明する。特に近年、総選挙が必然的にはらむ価値観が、メンバーたちの言動によって相対化される局面は顕著になっている。
選抜総選挙は、楽曲の歌唱メンバーやグループ内での位置付けの決定という、芸能全体で日々、水面下で行なわれていることを、便宜上ファンの手にゆだねつつ可視化し、さらにそのプロセス自体を興行化するものだ。その一大イベントに際して、昨年大きなトピックになったのは、小嶋陽菜、松井玲奈の不参加表明だった。参加すれば選抜メンバー入りが確実視された彼女たちの選択は、その巨大なプロセスに「乗る」ことと同等に、「降りる」という選択肢があることを象徴的に示した。2013年の立候補制導入以降、「降りる」という選択肢が最も明確に提示されたその昨年の総選挙に続き、今年も「降りる」という選択をさまざまなメンバーが表明している。それは必ずしもグループからの卒業を前提としてなされる選択ではないし、また活動意欲そのものの停滞などを表すものではもちろんない。むしろ不出馬という選択は現在、グループに所属する一人のメンバーとしての、ポリシーを宣言する一つの形になってきている。「立候補しない」ことの表明そのものが、選抜総選挙というイベントを介したメンバー個々人の主体性の発露としてあるのだ。
一方で、総選挙に「乗る」こともまた、メンバーにとって屈託なくなされる選択ではない。今年の総選挙期間、AKB48グループはメンバー個々人の表現スペースとして、ストリーミングサービス『SHOWROOM』と連携した動画配信を行なっていた。この配信において、HKT48の指原莉乃は「(総選挙を)やりたいかやりたくないかでいったら、やりたくない」(6月14日配信分)と率直に吐露している。同日の配信で彼女は、総選挙へのためらいを「“自分が頑張る”案件ではないじゃない?」と表現してもいる。それは、自分個人の裁量ではコントロールすることのできない総選挙というイベントに「乗る」ことが、ファンの購買行動をことさらに促すことと同義になってしまう状況への複雑な感慨を示したものだった。彼女のみならず、総選挙に「乗る」選択をし、上位を目指したメンバーたちは開票結果を受け、嬉しさや悔しさと同時に、自身とともに参加するファンに対して、こうした認識を踏まえた感謝の言葉を述べる局面が多い。そのような複雑さを必然的に抱え、それでもなお自身がグループに所属することの意義を表す行動として、あるいはこの巨大イベントを維持する責任を負って、「乗る」ことを選ぶ。48グループのメンバーが総選挙に立候補するとは、そうした複雑さを背負い込んでなされる選択にほかならない。
一見、ある基準で所属メンバーを強引に配列してみせるような総選挙というイベントは現在、それに「乗る」にせよ「降りる」にせよ、各メンバーがそれぞれの言動や振る舞いをもって、自身の価値観を投じる場になっている。開票前の段階で、一部にイベントとしての盛り上がりの停滞が語られたような状況は、メンバー個々人が総選挙に対しての複雑なスタンスをますます主体的に投げかけるようになったことと裏表でもある。