香月孝史『アイドル論考・整理整頓』 第十一回:アイドル好きアイドル

「アイドル好きアイドル」がシーンを変える? 指原莉乃、大部彩夏らの活動から考える

 あらためて言えば、今日の女性アイドルシーンはグループアイドルが主流である一方で、個人レベルではアイドル各人が自身をいかにプロデュースしてみせるかという、自己表現のためのフィールドになっている。アイドルという一定のフォーマットを保ちつつ、その中でどのように自身を周囲と差異化していくか、アイドルというジャンルはそうした戦略が無数に生まれる場になって久しい。たとえば、そのような差異化にとっての大きなキーワードのひとつになってきたのが、「アイドルらしくない」という言葉だった。

 2010年代前半を通してグループアイドルが次々と活躍を見せていく中で、アイドルを語る側の語彙としても「アイドルらしくない」は頻繁に用いられた。2010年代前半はAKB48グループがシーンの中で絶対的な覇権を手にしていく時期でもあったが、そうしたAKB48へのカウンターとしての気分も含みながら、ももいろクローバーZやでんぱ組.incなどを称える言葉として、「アイドルらしからぬ」「アイドルの枠を超えた」というフレーズは多用された。このとき、「アイドルらしくない」という言葉は、アイドルである当人たちの「主体性」の強さを指してポジティブに用いられてきた。そうした語りには少なからず、既存の「アイドル」に主体性がないといったステレオタイプに基づく、アイドルというジャンルに対する軽視も見え隠れしたし、それらの言説に対してはアイドルファンからの批判も少なからず提起されてきた。ともあれ、語る側があるアイドルについて際立った魅力を感じたとき、他のアイドルとの差異を表現するひとつの常套句として「アイドルらしくない」という言説は生み出されてきた。

 そして、この「アイドルらしくない」はまたアイドル当人たちにとっても、自身と周囲との差異を強調するためのフレーズとして活用されてきた。語る側がステレオタイプな「アイドル」像をもって「アイドルらしくない」という言葉を用いていたように、アイドル当人たちが自身について「アイドルらしくない」という言葉を用いるときもまた、対比としてそこに想定されている「アイドルらしさ」はファンタジーに近い。アイドル当人が自身を「アイドルらしくない」と言う場合、それはたとえば「オタク」的な趣味嗜好や、いわゆる「非リア充」的な来歴やプライベートの姿を持っていたりすることを指して用いられる。今日のアイドルシーンが自己表現、自己プロデュースのためのフィールドになっている現在、むしろ自身の不遇さや屈折を吐き出すための活路としてアイドルという場を選ぶケースは珍しくない。というより、ライブ等の「現場」やSNSで個々のパーソナリティをどのように見せながら立ち回っていくのかが問われる環境のもとでは、ともすればネガティブなアイドル当人の語りもまた、個性を際立たせて支持を獲得するための利点としても働く。

 このときに、そうした個性を主張するための決まり文句として「アイドルらしくない」はある。自身を「アイドルらしくない」と語る振る舞いそのものが、今やアイドルシーンの中ではよくある光景になっているという、パラドックス的な状況が生まれている。つまり、ここで「アイドルらしくない」というのは、今日のアイドルとしてレアケースであることを指しているのではなく、アイドルシーンの中で自身の特徴を伝えるときの補助として機能する、非常に戦略的な言葉遣いである。

 実際には、アイドル自身が「オタク」である(と表明する)ことは珍しいことではなくなっているし、ファンにとっても親近感として機能する局面が多いだろう。もちろん、「オタク」という単語がどう運用されているかについてもまた、ステレオタイプなイメージと現行の言葉の意味合いとのギャップ等は生じているし、それはそれで考察の余地がある。ともあれここでは、アイドル自身が自らを特徴づけるものとしてのオタク的な嗜好について、あるジャンルにクローズアップしてみたい。それはアイドルヲタク、つまりアイドル自身がアイドルのオタクであると自認する、あるいはファンにアイドルオタクとして認識されているケースについてである。

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