戦後サブカル史におけるポピュラー音楽ーー円堂都司昭が「終末」と「再生」をキーワードに紐解く

 今年8月、円堂都司昭著『戦後サブカル年代記 日本人が愛した「終末」と「再生」』(青土社)が出版された。同書で円堂氏は、文学から音楽、映画にいたる戦後文化の夥しい数の作品を参照しつつ、その根底に「終末」と「再生」というテーマが流れていることを検証している。その対象はサブカルチャーにとどまらず、政治や経済の動きともリンクした戦後日本の精神史を描き出そうという大きな構えも見える。そして多角的に戦後精神史を追うなかで、サブカル的な作品の比重が次第に増えており、その点で本書は異色の「サブカル年代記」にもなっている。今回、リアルサウンドでは本書の音楽に関する考察に注目。本サイトの常連寄稿者でもある円堂氏にインタビューを行い、各時代のポピュラー音楽が「終末」と「再生」というテーマとどう関わってきたかを中心に話を聞いた。なお、同氏による「音楽におけるサブカル」定義については、以前の記事を参照していただきたい。

「終末」と「再生」の反復を「春夏秋冬」的な感覚で受け止める国民性

―まず、本書を執筆する上での構想はどんなものでしたか。

円堂都司昭(以下、円堂):戦後史の中の様々な事象や文化を取り上げ、それぞれの関係性を見ていくという書き方をしています。扱った対象はサブカルチャーが中心ですが、各時代について政治状況では注目すべき首相を、文化状況では代表的批評家を、環境や経済の問題では公害、食品汚染、原発などを取り上げ、相互の距離感やバランスを考察していきました。たとえば、政治家に関しては、70年代は田中角栄、80年代は中曽根康弘、90年代は村山富市、ゼロ年代は小泉純一郎、10年代は安倍晋三と、各年代を象徴する総理大臣に登場してもらう。また、映画、コミック、アニメ、小説などのエンタテインメント作品を論ずる一方で、文学界からは江藤淳、大江健三郎、石原慎太郎を各時代に登場させ、「大江健三郎」以後の作家の系譜と見なせる村上龍、村上春樹など後続世代の作家にも触れていく。よく知られた作家や批評家を登場人物に起用して、あまりマイナーな方向に行かないでポピュラーな題材をとりあげ、物語のように読んでもらいたい。そういう構想でした。

―なるほど。取り上げるトピック自体は、あくまでもポピュラーなものであると。

円堂:ポピュラーなトピックを通して時代の変化を浮かび上がらせたいと考えました。その際、社会状況が作品にどう反映されたかを見るというより、政治、経済、人々の心性、そして各種の表現ジャンルといった諸事象の相関関係を見るっていう感じですね。特定の視点ではなく、できるだけ複眼で、ということです。その分400字詰め換算で約600枚と長くなったし、長くなったけど網羅はしていない。いくらでも隙はある本です。ただ、過去を振り返る時、これを読めば隙間は埋めやすくなるでしょうという、全体的な見取り図を目指した本ですね。

-本書の軸となっているのは「終末」と「再生」という大きなテーマですね。これが戦後史を様々な形で規定してきたという見立てがある。

円堂:“終末的なイメージの変遷”、“危機意識の推移”について語りたいと思ったことが、この本の出発点でした。本に出てくる作品でいうと『ゴジラ対へドラ』。ゴジラシリーズの中でも公害問題を扱った異色作ですが、僕が映画館で最初に観たゴジラ作品だったんですよ。小学校低学年の時でした。

―公開は1971年ですね。

円堂:はい。とても強烈な印象がありました。まず『ゴジラ対へドラ』で描かれた終末的な風景として、公害の怖ろしさがあった。光化学スモッグが目新しかった時代です。その数年後には『ノストラダムスの大予言』などの書籍が流行って、終末ブームが訪れます。音楽との絡みでいうと、本でも書いたように『ゴジラ対へドラ』のオープニングで「かえせ!太陽を」という環境問題を告発するロック調の曲がいきなり出てくる。場所は、ディスコの先祖であるゴーゴークラブ。マーブル模様の映像がスクリーンで流れ、ボディペインティング風のタイツを着た女の人が踊っている。当時の日本におけるサイケデリック・ロックのイメージでしょう。今見ると微笑ましいですが、あの頃は、ロックを“若者の狂気の象徴”として扱うことが多かった。公害の異様な雰囲気と、当時の若者文化、今ならばサブカルに相当するアングラ文化が混然一体となった『ゴジラ対へドラ』のオープニングが、自分の原体験となって強烈な印象を残した。そのイメージを出発点として『戦後サブカル年代記』を書いたともいえます。

―そのサイケデリックなオープニング曲というのは、作品のなかで“終末イメージ”につながっていたと?

円堂:そうですね。「かえせ!太陽を」という言葉に示される地球環境への危機意識や、その現れとしての自然回帰志向が、当時はありました。『ゴジラ対へドラ』には、若者たちが富士山麓で環境問題を訴えるフェスを開こうとするけれど人が集まらず、しょぼく終わるという展開があります。一方、69年に開催されたウッドストック・フェスの記録映画には、湖で水を浴びるシーンがあって、あの頃の若者文化にあった自然志向を映していた。反戦だけでなく自然回帰も志向していたウッドストック以降の“LOVE&PEACE”の感覚が、『ゴジラ対へドラ』にも含まれていたと、後になって気づきました。

―そうした終末イメージの源流は、日本人の被爆や敗戦体験にあるのでしょうか。あるいは、もっと前に遡るのでしょうか。

円堂:本のサブタイトルに「終末」と「再生」とあるのは、もちろん戦後の復興を意識しています。それだけでなく、大戦以前から関東大震災など繰り返し天変地異が起こってきたこの国で、戦争もある種の天変地異の1つであるかのように、「終末」と「再生」の反復を「春夏秋冬」的な感覚で受け止めてしまう国民性があるんじゃないか。そういう感覚が、執筆する際のベースにありました。『ディズニーの隣の風景』という本を以前出した時にも書いたんですが、日本では不動産も“流動産”なんですね。地震、台風、津波、洪水、雪害などのリスクが基本条件として常にあるので、それを受け入れる、ある種の諦めみたいな心性が、国のベースにあるように思う。でも、いったん落ち込むけれど、すぐまた春はくるだろうと楽天的なところもある。それらが表裏一体になっている、日本人の危機意識の変遷をたどってみようとしたわけです。

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