マライア・キャリー、エピック発のベスト盤が物語るもの 元祖・歌姫のキャリアとは?
1990年に〈7オクターブの歌姫〉というキャッチコピーのもと、シングル「Vision of Love」でデビューを果たして以降、常に時代を象徴するアーティストとして君臨してきたマライア・キャリー。デビューから在籍していたソニーミュージック傘下のコロンビア・レコードから、99年にヴァージン・レコード(当時、EMI傘下)へ移籍し、2002年には心機一転、ユニバーサルミュージック傘下のアイランド/デフ・ジャム・レコードへと籍を移した。そして今年2015年、初心に返るべくソニー傘下のエピック・レコードへ移籍を果たし、今年活動25周年を記念し、ベスト・アルバム『#1 To Infinity』をリリースする。
今でこそ〈歌姫〉というキーワードは、当然のように流通しているが、日本でMISIAや宇多田ヒカルがブレイクした2000年前後を境に、日本でも流布されたように思う。当時マライアは、「アメリカ屈指のディーヴァ」として広く認知されており、今回のベスト盤に収録された前述「Vision of Love」をはじめ、「Emotions」(91年)や「Dreamlover」(93年)「Hero」(93年)といった流麗なバラードや軽快なアップテンポなポップスで、すでに商業的成功を収めていたわけだが、あくまで“ブラックコンテンポラリー路線”を逸脱することはなかった。
徐々に変化が訪れるのは95年にリリースされたシングル「Fantasy」からだろうか。遊園地の敷地をローラーブレードで優雅に舞い、ジェットコースターに乗りながら小悪魔的な微笑みを投げかけてくるミュージックビデオは、「Dreamlover」のさわやかさに通じるものがあった。この頃からマライアには「よりブラック・ミュージックに傾倒した音楽に没頭したい」という気持ちが芽生えていたに違いないが、それに戸惑いを覚えさせていたのは、幼少期のトラウマとなっている人種差別(父親がアフリカ系ベネズエラ人とアフリカン・アメリカンのハーフで、母親がアイルランド系アメリカ人の白人)と、当時の夫であったトミー・モトーラ(マライアが在籍していた時期のソニーミュージック元社長)による完全なるクリエイティブ・コントロールであった。
カゴの中の鳥状態であったマライアは離婚を決意し、「モトーラの支配下から華麗に羽ばたくことができました!」を彷彿とさせるタイトルのアルバム『Butterfly』(97年)を発表。リード・シングルとなった「Honey」は、ディディ(当時パフ・ダディ)とア・トライブ・コールド・クエストのQ・ティップを制作陣に迎えた、いわゆる“ヒップホップ・ソウル”を体現した楽曲で、これまで「マライア・キャリーの曲はクオリティが高いけど、プレイするのはいまいち……」と難色を示していたクラブDJたちにも受け入れられる好結果を生んだ。その後、マライアは肌の色など気にせず、厚着の衣装も脱ぎ捨て、露出の割合も高めていく。しかし、それ以上に彼女が持つポテンシャルの高さも露わとなったのは言うまでもない。