磯部涼×中矢俊一郎「時事オト通信」第4回(前編)

黒人音楽をめぐるポリティカル・コレクトネスの現在 “ステレオ・タイプな表現”をどう脱するか

 音楽ライターの磯部涼氏と編集者の中矢俊一郎氏が、音楽シーンの“今”について語らう連載「時事オト通信」第4回の前篇。今回は、ラッツ&スターがももいろクローバーZとともに黒人を模して“顔の黒塗り”という表現をしたことにより巻き起こった議論や、韓国のラッパー・Keith Apeが中心となって日韓のラッパーをフィーチャーした楽曲「It G Ma」が世界中で話題となったことを取り上げ、ミュージシャンの表現とポリティカル・コレクトネスの関係について考察を深めた。(編集部)

磯部「ラッツ&スターの件で表面化した問題は、彼らだけのものではない」

中矢:最近、ネットでポリティカル・コレクトネス(差別や偏見を含まない言葉/表現を用いること。以下、PC)に基づいた炎上が盛んに起こっているように思います。ポピュラー音楽をめぐったものに関していうと、例えば、2月、「ニューヨーク・タイムズ」の田淵広子記者がツイッターで、「なぜ、日本でレイシズムについての議論が必要なのか」というコメントを付けてアップした、ラッツ&スターとももいろクローバーZが顔を黒塗りにした写真が問題になりました(https://twitter.com/hirokotabuchi/status/565699599810445312)。

 ラッツ&スターは、80年にドゥ・ワップをベースとしたコーラス・グループ=シャネルズとしてデビューして以来、ずっと、顔を黒塗りにしてきたわけですが、これまで、日本ではほとんどと言っていいほど問題にならなかったですよね。ただ、欧米では、そのようなメイクは“ブラックフェイス”といって、アメリカで19世紀に流行った、主に白人が顔を黒塗りにして黒人のカリカチュアを演じるミンストレル・ショーを直接的に連想させるため、人種差別の象徴としてタブーになっています。そして、そのような、日本のガラパゴスな環境のせいで見すごされてきた表現がネットに乗ることで、世界中の視線に晒され、批判が殺到したというところでしょうか。

 ちなみに、件の写真は、もともと、ラッツ&スターのメンバーである佐藤善雄氏が、歌番組『ミュージック・フェア』収録時のオフ・ショットとしてツイッターにアップしたもので、炎上を受けて氏は写真を削除。3月7日の同番組の放送では、黒塗りのシーンはカットされていました。

磯部:ネットで見られた日本側からの意見の中には、ラッツ&スターのブラックフェイスを批判するものも多かった一方で、「彼らに、黒人に対する差別意識はなく、むしろ、黒塗りはリスペクトの表れなのだから、批判は御門違いだ」というようなものもあったよね。ちなみに、今回、ラッツ&スターのメンバーや関係者はコメントを出していないので、彼らがどう考えているのかはわからないけど、ブラックフェイスのコンセプトとそれに対する海外での反応については、「QUICK JAPAN」VOL.7(太田出版、96年)掲載の、佐藤氏のインタヴュー「なぜ黒く塗るのか?」から伺い知ることができる。今回の議論で引用している人も多かったよく知られた記事ではあるものの、おさらいとして該当箇所を要約してみようか。

 まず、同記事によると、ブラックフェイスを始めたのは「尊敬している黒人音楽だし、どうせやるんだったら、見た目の分かりやすさもあるし、黒人になりきっちゃおうって」考えたからで、「僕らなりに黒人の音楽とか黒人っていう人達にリスペクトする気持ちがあればこそ出来ること」だと。また、80年、81年にロサンゼルスの有名なナイト・クラブ〈ウイスキー・ア・ゴーゴー〉に出演したときも、「白人からスパニッシュから黒人からいろいろ来てましたけど、変に誤解されることはなかったですね。黒人音楽を愛しているっていうのが伝わったと思うんですよ」と語っている。しかし、メンバーが黒人のロック・バンド=フィッシュボーンと日本のテレビで共演したときは、以下のように緊迫した雰囲気になったという。

「凄く怒ってましたね。やっぱり、馬鹿にされていると思ったんじゃないですか。別に殴りかかってくるわけじゃないんだけど、側にいて刺さるような目つきを感じる部分があったから。怒ってるんじゃないかな、っていうことは瞬時に分かったけどね。ただ、彼らに対して言い分けするのも変だし」

 ここから、ラッツ&スターのブラック・フェイスの前提には、やはり、“黒人音楽”に対する愛があるものの、彼ら自身、それが際どい表現だと認識していたし、その上で意図を説明してこなかったことがわかる。

 ちなみに、ラッツ&スター・佐藤善雄氏のインタヴューもその一部である『QUICK JAPAN』VOL.7の特集タイトルは、「黒くなれ。~ヒップホップと黒人と僕たち」というもので、巻頭には編集部の村上清氏が書いた以下のような文章が置かれている。

「この前、新宿駅で電車を待っていた時のことだ。なんかブッ飛んだヘアスタイル、謎のコーディネート、でも素晴らしくキマっている女の人が僕の前を通り過ぎた。あっ、と思ってよく見たら、やっぱり黒人だった。似たような経験は1度や2度ではない。大体、黒人てなんであんなにカッコイイ歩き方をするんだ? なんであんなにラジカセが似合うんだ? そんなバカみたいな長年の疑問を解決すべく試みた今回の特集は、音楽以外の出来事にもグルーヴを求めてしまう、あなたに読んで欲しいです」

 同特集では、そのリードに続いて、黒人ミュージシャンの逸話が面白可笑しく紹介されていたり、特集全体を通して“黒人(文化)”への愛を表明するものになってはいるんだけど、それは、リードに書かれていたように、“黒人”は、“ブッ飛んだ”“謎の”“でも素晴らしくキマっている”――つまり、非論理的な魅力を持っているというステレオタイプな見方に基づいた極めて一方的な愛だとも思う。そして、そのような愛は、人間を出生による属性でひとくくりに評価している点で、やはり、レイシズムと表裏一体なんじゃないか。

 ラッツ&スターのブラックフェイスも“黒人音楽”への愛を表現したものだと言っても、それは、極めて一方的な愛だよね。相手にとっては暴力になるような。また、佐藤氏はライムスターやイースト・エンド、リップ・スライムなんかもかつて所属していた、日本のラップ・ミュージック史における重要レーベルのひとつ〈ファイル・レコード〉の代表取締役も務めているわけだけど、「“黒人音楽”に対する一方的な愛」という問題は、決してラッツ&スターだけでなく、日本中の――いや、世界中の、“黒人音楽”に執着する非・黒人たちが抱えているものでもあるのかもしれない。

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