栗原裕一郎の音楽本レビュー 第9回:『踊る昭和歌謡―リズムからみる大衆音楽』
“踊り”から読み直す日本の大衆音楽ーー輪島裕介『踊る昭和歌謡』を読む
ニューリズムと呼ばれた歌謡曲の“流行”がかつてあった。終戦から10年ほど経った50年代半ばから始まって、60年代いっぱいくらいで終わったブームで、マンボ、カリプソ、ドドンパ、パチャンガ、スクスク、ツイスト、ボサノヴァ、タムレ、スカ、サーフィン、スイム、アメアリッチといった新しい“リズム”が、入れ替わり立ち替わり登場し“流行”したというものだ。
それぞれ代表的なタイトルをあげるとこんな感じである。
美空ひばり「お祭りマンボ」、浜村美智子「バナナ・ボート」、渡辺マリ「ドドンパ娘」、富永ユキ「パチャンガで踊ろう」、ザ・ピーナッツ「スクスク」、藤木孝「ツイストNo.1」、小林旭「アキラでボサノバ」、渚エリ「東京タムレ」、梅木マリ「マイ・ボーイ・ロリポップ」、橋幸夫「恋をするなら」、橋幸夫「あの娘と僕〜スイム・スイム・スイム」、橋幸夫「恋と涙の太陽」……
“流行”と“リズム”にカッコを付けたのは、その大半がレコード会社やプロダクションにより仕掛けられたもので不発に終わったケースも多く、リズムと称しつつリズムでも何でもないものが紛れていたりしたからだ。
ニューリズムは、戦後歌謡に咲いた徒花、一部の好事家やDJに愛好されるキワモノというのが大方定まった評価になっているといって差し支えないだろう。「リズム歌謡」と呼ばれることもあるが、本書によるとこの呼称は当時は使われていなかったそうだ。
この本の狙い——前回の『ニッポンの音楽』を敷衍していうなら「史観」——は、傍流として打ち捨てられてきたニューリズムを、大衆音楽の個性のある側面を担ったものと見なし、現在まで続く系譜として位置付け直して正統性を与えようというものだ。(参考:『ニッポンの音楽』が描く“Jポップ葬送の「物語」”とは? 栗原裕一郎が佐々木敦新刊を読む)
平たく言い直すと、音楽の“踊り”という要素に注目して、踊る歌謡曲の歴史をひとつ書いてみようではないかということである。
この史観はあながち穿ったものではない。戦後歌謡がGHQの進駐軍クラブから生まれたものだったことを思い出せば、“踊り”を軸に歌謡曲の歴史を紡ぐことは、むしろまさしく正統であるということもできなくはないくらいだ。
クラシックにしろジャズにしろロックにしろ、音楽には、歴史を重ね高尚になるにつれて、“踊り”の要素を失い“鑑賞”が主体になっていくという傾向がある。ジャズでいえば、スウィングからビバップ、フリーという変遷は、陽気に踊るダンスホールから、腕組みしかめ面で鑑賞するジャズ喫茶へという変遷に対応している。
大衆音楽と芸術音楽を区別する基準は、商業性や精神性、楽曲構造などなどいくつか考えうるけれど、いずれも多くは、リスナー側の意識や態度によって決定されてくるものである。
ならば、“踊り”と“鑑賞”を対立項と考えて、大衆音楽と芸術音楽を区別することも可能なのではないか。
著者である輪島裕介の史観設定はそのようなものだ。そして、“踊り”を軸に据えたときに視野に大きく入ってくるのは、日本の大衆音楽では傍系的に思われているラテン音楽なのである。
打ち捨てられたマンボ・ブーム
戦後歌謡を扱った本書だが、第一章は戦前から始まる。戦後につながるダンスホール文化の成り立ちを紹介するためだ。
1883(明治16)年建立の「鹿鳴館」が日本初のダンスホールだが、これは日本政府が外交上の必要から建てたものだった。大衆の娯楽のためのダンスホールが登場するのは、1918(大正7)年、横浜「花月園」からのことになる。
ダンスホールはジャズと結び付き、大正の終わりから昭和の初めにかけて大阪を中心に隆盛する。東京へもブームは広がったのだが、戦時下になり規制が強くなっていって、1940(昭和15)年に全国すべてのホールが閉鎖された。
敗戦した日本はGHQによって占領された。GHQは日本の建物を接収して兵士慰安のための進駐軍クラブを造り、同時に米兵を客とするかたちでダンスホールやキャバレーが復活した。ほどなく邦人相手のホールも登場してきて、日本人のあいだにダンス・ブームが兆す。
進駐軍クラブで演奏していたのは日本人のジャズメンや歌手だ。戦後の芸能界は、この進駐軍クラブとその周辺から生まれてくることになる。
その筆頭が渡辺プロダクションであり、彼らが1958年に開催した日劇ウェスタンカーニバルが起点に据えられるというのが戦後歌謡の正史となっている。
しかしそれ以前、1955(昭和30)年頃から、ダンスホールではマンボ・ブームが起こっていた。60年代いっぱいまで続くニューリズムはこのマンボ・ブームに端を発したものだ。
マンボの流行はそれなりに大きく、太陽族を準備するなど風俗的にもインパクトのあるものだったのだが、歌謡曲の正史ではほとんど顧みられてこなかった。それゆえにこのブームを起点に据え直し、“踊り”に焦点を当てた戦後歌謡史が構想されているわけだが、その意義について、輪島はこう述べている。
「六〇年代後半のフォーク/ロックを特権的な「文化革命」とみなし、それとの関係で大衆音楽史全体を位置づけるような見方とは別の角度から、日本の大衆音楽史を見直し、同時代に世界各地で同時多発的に起こっていた音楽的変革の様々な可能性に光を当ててみたい。
そのことは、英語圏ポップ/ロックを単一の「世界の中心」とみなす大衆音楽史観と、日本の大衆音楽史をその下位ヴァージョンとみなすような思考を、ふたつながら相対化することにつながるはずだ」