栗原裕一郎の音楽本レビュー 第8回:『ニッポンの音楽』
『ニッポンの音楽』が描く“Jポップ葬送の「物語」”とは? 栗原裕一郎が佐々木敦新刊を読む
溶解する「内」と「外」
しかし「ニッポンの音楽」で何が終わりつつあるというのか。
佐々木いわく、それは「内」と「外」の区別である。
「内」とは日本であり、今ある「ここ」のことだ。「外」とは、海外(の音楽)であったり、過去(の音楽)であったり、「内」からは遠く隔たっているがゆえに憧憬されたり志向されたりした向こう側、手が届かなかった「よそ」のことだ。
70年代から2010年代までの約50年間で、「内」と「外」は幾度かの捻れや変転を重ね、同時に距離はどんどん縮まっていき、今やほぼゼロになった。「内」と「外」は、互いが互いを内包しあうように溶解し、「もはやどこだって、いつだって「ここ」になってしまった」。
その変化をもたらしたのは、シンセサイザーからDAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)への進化やボーカロイドに代表されるテクノロジーであり、レコードからCDそしてデータへというインターネットを含めたメディアの変化であり、グローバル化や長期不況といった文化的政治的経済的状況である。
佐々木が「リスナー型ミュージシャン」としてピックアップした音楽家は、「内」にいながら「外」を志向してきた人たちとして規定されている。
ここはちょっと注意が要る。「外」を志向するといっても、洋楽に憧れていたとか、海外での成功を目指すというような単純な話ではないからだ。それはむしろ「外」を「内」へ取り込もうとする欲望というべきものであって、その欲望の流転と到達点を描き出すことが、佐々木の「物語」の最大の眼目なのである。