冬将軍が7月20日横浜スタジアム公演をレポート
氷室京介が見せたボーカリストとしての壮絶なる美学 ソロ25周年ツアー最終公演によせて
ボーカリスト兼クリエイターとしての氷室
ソロ活動を開始してからも“ソロアーティスト”というより“ボーカリスト”という言葉のほうがしっくり来る。本田毅も絶賛するほどのギターの腕前を持ちながら、ギターを下げてステージに立つことはない。アコースティックギターで弾き語りをすることあったが、それも数えるほどしかない。徹底的にハンドマイク1本にこだわったボーカリスト・ヒムロック美学である。マイクと口の距離感のコントロールは神業と言えるだろう。右手にマイクを持ち、口角に対して直角に構える、グリルボール部をしっかりと握り、小指だけ柄の下から支える。今となっては当たり前のように多くのボーカリストがやっているが、「氷室持ち」と言われたこのスタイルをみんながこぞって真似したのだ。そして、カスタムIEM(カスタム・イン・イヤー・モニター、通称:イヤモニ)をいち早く、本格的に使用した日本人アーティストでもある。
そんなボーカリストとしての印象の強い氷室であるが、自身はクリエイターとしての制作活動に重きを置いている。日本にいると周りの人間が全てをやってくれることを嫌い、制作の拠点として1994年にロサンゼルスへと移り住んだ。マイケル・ランドウ(ギタリスト)などの凄腕ミュージシャンや著名エンジニアに自ら直接オファーを出している。2011年のワーナーミュージックへの移籍は、グリーン・デイやアヴリル・ラヴィーンなどを手掛けた、ワーナー会長兼プロデューサーのロブ・カヴァロ氏との出会いに端を発している。2009年にマイ・ケミカル・ロマンスのボーカル、ジェラルド・ウェイと氷室がコラボレーションしたシングル『Safe And Sound』をロブ氏が聴いたことで氷室に興味を抱いたのだった。
代表曲の一つ、「魂を抱いてくれ」は事務所の独立、渡米、レコード会社の移籍第一弾だった。はっぴぃえんどのドラマーで、原田真二や太田裕美などの作詞でも知られる松本隆によるもの。それまでの横文字を多用したニヒルな詞とは正反対の男臭い世界観と、真っ白い衣装と砂漠の中で歌う明るめのミュージックビデオは、今までイメージを覆して話題になった。20日のライブでは、当時のエピソードが話された。ちょうど3人目の子供が出来たときの楽曲だったということ、歌入れが難航してエンジニアと揉めたこと、レコーディング現場に初めて妻、“かみさん”を連れて行ったこと。納得が行かず何日もかけて歌い直す氷室に「最初に歌ったテイクが一番良かった」とかみさんに言われ、「素人にはそう聴こえたのかもしれないけど…」そうつぶやく氷室の姿が印象的だった。「かみさんが~」と呼ぶ氷室は硬派でストイックなイメージとは不釣合いにも思えるが、多くのインタビューでも最大の理解者として照れることなく紹介している。ツアーに帯同し、夫婦揃って会場入りというのもファンにはお馴染みの光景だ。現在は事務所副社長を務めている。独立、渡米という挑戦を陰ながら支えてくれたのは家族の存在だったであろう。
「このリベンジをどっかで必ず」
ファンにとって氷室の活動休止は、近年の言動から「いつかこういう日が来るだろう」と覚悟していたことだった。ただそれはあまりにも唐突過ぎた。13日の突然の発表から一週間しか経っていない。19、20日のライブが最後になってしまうのか、本当にラストライブは行なわれるのか。ライブを辞めるのか、音楽活動自体を辞めてしまうのか。オフィシャルからの発表はあったもの、本人の言葉はなく、曖昧な情報に様々な憶測と不安が過る一週間だった。
「今日は本当に申し訳ない。プロとして、怪我をしていてこれ以上出来ないけど、このリベンジをどっかで必ず。その時は、もし本当に、こんな情けない人間をもう一回支えてくれる連中が集まってくれたら、いいなと、思います」
その言葉を最後に氷室はステージを去った。袖ではスタッフに抱えられてフラフラだった。アーティストは怪我で本調子ではない、悪天候、そして中断。普通に考えればライブ興行としては最悪だ。だが、この日の氷室京介の姿を見届けたファンは、氷室への感謝と賛美の気持ちを胸に、この上ない満足感に包まれて帰路についたことは改めて説明するまでもないだろう。
■冬将軍
音楽専門学校での新人開発、音楽事務所で制作ディレクター、A&R、マネジメント、レーベル運営などを経る。ブログ/twitter