新作『W FACE』完成記念インタビュー(前編) 

「ポップの本質は一発芸だ」J-POPを創った男=織田哲郎が明かす“ヒットの秘密”

ポップ・ミュージック史全般への造詣は深く、各ジャンルへの考察が次々と飛び出す

90年代は、いろいろな歯車がうまくかみ合ったラッキーな時代だった

――80年代の日本語ポップスは「ニューミュージック」という呼び方で、ロックとは別のものという認識が一般的でした。それが90年代に入ってから、織田さんの作るロックのマナーを持ったポップスが世の中に広がっていき、ロック的な要素も入った「J-POP」というカテゴリーができあがったように思います。そうした流れを、ご自身ではどのように分析していますか。

織田:僕がデビューしたWHYというバンドが、すでにそんな志向でしたね。当時から、メロディーはアコギ一本で歌ってもきちんときれいなもので、でもオケはロックとしてカッコいいものがいい、と思っていて。ただそのころは、弦が入っていて、不必要なキメがやたらあるものじゃないと歌謡曲じゃなかったから「中途半端なもの」と言われたし、ロック系の人からは「歌謡曲っぽい」と言われたりして。そういう音楽がきちんと受け入れられるようになっていった変化については、素直にうれしいですね。自分が気持いいと思うものをみんなが気持ちいいと思ってくれるようになった、という感じでした。

――そうして、織田さんは楽曲提供したBBクイーンズ「おどるポンポコリン」(90年)以降、自身の「いつまでも変わらぬ愛を」(92年)、ZARDへの提供曲「負けないで」「揺れる想い」(93年)など、ミリオンヒット曲を連発しました。

織田:歯車がかみ合ってきているな、という感じでした。そもそも楽曲というものは、“曲がいい”というだけでヒットするものではない。いい歌詞が乗ることが大事だし、アレンジも歌もよくないとダメです。なおかつ、多くの人が聴いてくれるようなプロモーションができていないといけない。そうやっていろいろなことがうまく回らないと、ヒットにはつながらないんです。その意味で90年代は、いろいろな歯車がうまくかみ合っていた時代だと思います。

――一方、現在の音楽業界について伺います。90年代初頭はCDの売り上げがどんどん伸びる時代でしたが、2000年以降、頭打ちになってから厳しい状況になってきています。そうした中で、レコーディング芸術としての音楽が難しくなっている状態をどう思われますか?

織田:それは仕方がないですよ。逆に言えば、レコードがまだない時代は、生演奏しかなかった。そのころからハードの変化に応じて、人が音楽を楽しむ方法は変わってきたんです。レコードからCDに切り替わる以前のことを考えると、実はレコードはそんなに売れなかったんですよ。TUBEの「シーズン・イン・ザ・サン」(86年4月にレコード/カセットでリリース)は当時大ヒットだったけれど、それでも30万枚くらいだった。90年代のCDのセールスは、たまたまラッキーな時代だったと思います。

 音楽を聴くためのソフトやハードをどう世の中に普及させるか、あるいはそこでどんな音楽を商売としてやるべきか、ということは、それを考えたい人が、それぞれのポジションで考えればいい。自分は単純に音楽を作ることのプロであって、そこにしか楽しみはないから、レコードがなければ演奏会用の音楽を作るだろうし、その時代なりに自分が作りたいものを作るだけです。

 もちろん、ハードが変わることで作り手も変わる。ただ、パソコン一台で音楽が作れるようになっても、それはあくまで道具であって、その道具だからできることだけをエンジョイしているサウンドは単なる流行りになってしまうから、あまりそういうことはしたくないですね。音楽自体は、何十年経ってもリスナーが古くさいと思わずに聴ける普遍性を求めて作っています。売れる売れないはそこから先の話で、正直あんまり興味ない。歯車が上手く回れば売れるし、売れなかったらそれは仕方がない。売れても売れなくても「良い曲ができたなぁ」と思える瞬間に自分の最大の幸福があるので、「あんまりほかのことを考えても仕方がない」というスタンスですね。

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