『ハン・ソロ』なぜ賛否渦巻く結果に? 良い面と悪い面から考える、その魅力と問題点

『ハン・ソロ』の魅力と問題を徹底考察

 相棒の“チューバッカ”とともに「銀河一」と豪語する高速の宇宙船「ミレニアム・ファルコン」を駆り、レーザー光線を発射する銃「ブラスター」を巧みに操って、ならず者や帝国軍と渡り合う“運び屋”。皮肉屋だが情に厚い、ハンサムなアウトロー。ハリソン・フォード演じる“ハン・ソロ”は、『スター・ウォーズ』旧三部作で最も愛されているキャラクターの一人だ。そんなハン・ソロを主人公にして、彼がルーク・スカイウォーカーに出会う前の、若かりし頃の物語を描くのが、『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』である。

 ディズニーによる、この『スター・ウォーズ』のスピンオフ企画第2作は、アメリカでは興行収入の面で芳しい成績を収められなかった。『スター・ウォーズ』の権利を取得して以降、爆発的なヒットの連続でビジネスを継続していきたいと考えていたディズニーの経営陣にとっては、苦々しい結果となっている。その一方で、一部では作品の内容に称賛の声があがり、また一部を失望させるなど、事態は混迷している。

 ここではそんな賛否が渦巻く、本作『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』を多角的に検証し、良い面と悪い面を率直に述べながら、魅力や問題を明らかにしていきたい。

西部劇としての『スター・ウォーズ』

 制作が発表されたときから、ハン・ソロの物語が「宇宙西部劇」として描かれるだろうことは予測されていた。『スター・ウォーズ』は、もともとジョージ・ルーカス監督が愛する、往年の西部劇や、黒澤明監督の時代劇映画を、宇宙を舞台にしたSFの世界のなかで表現し直した作品だった。ルーク・スカイウォーカーが時代劇の要素を担い、同時にオペラ悲劇のような重々しい存在へと成長していったのに対し、ハン・ソロの象徴する無法者のキャラクターは、西部劇の要素を代表しつつ、作品の内容に軽快さをもたらしていた。

 『スター・ウォーズ』第一作が、多くの観客の心をつかんだことの一つに、このような西部劇としての魅力があった。逃げるミレニアム・ファルコンを、帝国軍の戦闘機タイファイターが追撃する構図は、ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の『駅馬車』における、悪として描かれたアメリカ先住民と馬車との、走行中の攻防に重ね合わせることができる。もともと馴染みのあるモチーフを、SFとして提出することで、新しい要素を登場させながらも、分かりやすい娯楽性を獲得していたのだ。

 だからハン・ソロを主人公とした本作は、軽快かつ娯楽に徹した西部劇として撮られることがふさわしい。『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』の脚本を書き、西部劇映画の監督も経験しているローレンス・カスダンと、息子のジョン・カスダンによる脚本は、たしかにそのようなものになっていた。

 身寄りがなく育った若きハン・ソロ(オールデン・エアエンライク)は、好意を寄せる少女キーラ(エミリア・クラーク)を救い出すため、売り出し中の犯罪組織の首領に雇われ、無法者の仲間たちと列車強盗や密輸によって大金を稼ごうとする。その旅のなかで出会うのは、奴隷として繋がれていたウーキー族のチューバッカや、ギャンブラーで運び屋のランド・カルリジアン(ドナルド・グローヴァー)らである。このような内容はそのまま、舞台を開拓時代のアメリカに移し替えることも可能だ。

 ちなみにそこでは、ジョージ・ルーカス監督が、ハン・ソロが悪漢を不意打ちによって殺すシーンのある第一作を改変し、後に撃ったように編集し直したことで、ファンのなかで物議を醸した、「ハンが先に撃った」問題への回答となるシーンも用意されている。

あぶり出された“世代問題”

 紆余曲折あって、本作に職人的な技術を持つベテランのロン・ハワード監督を呼んだのは妥当な選択だと思える。本作を鑑賞して最も強く感じたのは、全体に流れる、無理がなく安定した雰囲気である。

 いままでのディズニーによる新しい『スター・ウォーズ』シリーズは、ジョージ・ルーカス監督の新三部作のような、新技術を駆使して新しい映像を作り上げるというよりは、旧三部作の風合いに近い、レトロな雰囲気を追うようなものになっていたと思える。とくにJ・J・エイブラムス監督は、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』において、往年のスピルバーグ作品へのオマージュ作である『SUPER8/スーパーエイト』同様に、あえて古めかしさを意識した映像を作り上げた。それは、あたかも現在の若い世代の漫画家が、昭和のレトロな絵柄を再現するような態度にも似ているように思える。

 J・J・エイブラムス、ライアン・ジョンソン、ギャレス・エドワーズといった、旧三部作を子ども時代に観客の立場で鑑賞していただろう監督たちは、映画製作という意味では『スター・ウォーズ』旧三部作の時代とは分断された世代にあり、むしろCGを全面的にとり入れたことで現在の映画表現のエポック的存在となった新三部作(エピソード1~3)の直接の恩恵を受けている。

 対するロン・ハワード監督は、ジョージ・ルーカス監督の『アメリカン・グラフィティ』(1973年)に出演し、ジョージ・ルーカスが原案をつくり製作総指揮を担当した『ウィロー』の監督を務めるなど、実際にジョージ・ルーカスのもとで、映画づくりに従事した人物だ。さらにロン・ハワードは、それ以前から子役としてエンターテインメント業界に足を踏み入れており、子どもたち同士で西部劇ごっこを撮影して楽しんでいたりなど、むしろ映画人生は、10歳上のジョージ・ルーカスよりもはるかに長いのだ。

 本作に目立つセット撮影の風合いは、旧三部作から、CG主体となる新三部作(エピソード1~3)まで、「シリーズが途切れずに90年代にも存続していたらこんな感じだったのではなかったか」と思わせる、ミッシング・リンクを埋めるような、シリーズ作品として説得力ある印象を与えられる。それは感慨深くもあり、同時に新三部作よりも後退した、手法的な凡庸さを感じる部分でもあるだろう。

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