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『クソ野郎と美しき世界』は稲垣×香取×草なぎの決意表明だ 喪失感から生まれた“愛の映画”

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  稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾による映画『クソ野郎と美しき世界』が公開された。ギリギリのスケジュールで制作され、マスコミによる試写はなく、テレビでの宣伝もほとんど見られない前代未聞の作品。映画館から出た筆者の耳には、通りすがりの人たちの「へー、この3人が映画やってるんだ」という声が飛び込んできた。

 気付けば、彼らの地上波テレビ番組は次々と最終回を迎えて、歌番組で観ることもなくなった。彼らを取り巻く環境は、着実に変わってしまった、それは紛れもない事実だ。そして、その喪失感こそが、この映画が作られた原動力。失うのは、苦して、悲しくて、寂しい。だが、その痛みを知っているからこそ、誰かに寄り添える何かを生み出すエネルギーになるのだろう。『クソ野郎と美しき世界』は、喪失の先も生きていかなくてはならない、全ての人たちを牽引する愛の映画だ。

 本作は、4つのエピソードから成り立つ。エピソード1『ピアニストを撃つな!』は、この映画が現実と限りなく近いパラレルワールドへと誘うカウンターパンチ。稲垣は“ゴロー”というピアニストを演じ、その立ち居振る舞いはまさしく私たちの知る“稲垣吾郎”。だが、実際の稲垣はピアニストではないし、ピアノを弾いているのも素振りだけのように見える。私たちも良く日常で見る「これは知り合いの話なんだけど……」と、自分の話を始めるような、そんなリアリティではない世界だからこそ語れる話のはじまりなのだろう。ストーリーの主人公は、ゴローではなく人間離れした嗅覚の持ち主のマッドドッグ・大門(浅野忠信)だ。

 考えてみてほしい。何かにつけて人の何倍も敏感であることの苦悩を。マッドドッグは、繊細ゆえに生きにくい人を象徴しているのではないだろうか。その証拠に、人の痛みを自分の痛みとして感じてしまうジョー(満島真之介)を手下として側に置く。もがきながらも一生懸命なジョーを見捨てられない性分なのだろう。そして、愛しくて仕方のないフジコ(馬場ふみか)が、ゴローの指を愛しているのなら……とゴローに代わって自らの5本の指を失う。そんな喪失を持って愛を貫く大門に、『SMAP×SMAP』で5本の指を折り曲げて「世界に一つだけの花」を歌った、あの人を思い浮かべてしまう。でもそれは、きっと筆者の深読みのしすぎだろう。だって、これはパラレルワールドの話なのだから。


 エピソード2の『慎吾ちゃんと歌喰いの巻』は、慎吾が“香取慎吾”として登場する。歌喰い(中島セナ)によって歌を喰われてしまい、たくさんあったはずの“持ち歌”が歌えなくなってしまう。「きっ……」「あっ……」「せっ……」思わず観ているこちらが続きを歌ってしまいそうなほど、私たちの中にも染みついている名曲たち。奇しくも撮影当時の中島セナは、香取がCDデビューした年齢と同じ11歳。子守唄を歌いふたりで添い寝をするシーンは、彼がどれほど小さいときからこの世界に生きてきたのかを改めて実感する。歌えないということは、過去を語れないと同じ。人生を振り返れない彼は言葉にできない思いをキャンバスにぶつける。だがその絵さえも喰われてしまう。歌を食べられてしまった人たちが悲しむのも「生きていくためだから仕方ない」という歌喰い。子供が話すと実にシンプルに聞こえる。

 今、3人がかつての持ち歌を歌えないという現実も、誰かが「生きていくため」に仕方ないのかもしれない。理屈ではそう、だが感情はどこにいくのだろう? 正義と正義のぶつかり合いは、大人になるほどうまく解決策が見いだせない。だが、クソだと思うようなことを飲み込むことで、発想の逆転が生まれることもある。<また逢う日まで逢えるときまで 別れのそのわけは話したくない>そんな劇中歌の歌詞に、いつかを期待してしまう。

      

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