大林宣彦監督の圧倒的な執念ーー『花筐/HANAGATAMI』の幻惑的で自由な映画世界

小野寺系の『花筐/HANAGATAMI』評

「肺がん、余命3ヶ月」

 1977年公開の初監督作『HOUSE/ハウス』よりも先に手がける予定だったという、檀一雄の小説『花筐』を映画化するという企画を、40年以上経って再び始動させた大林宣彦監督。撮影を始めた矢先、医師にそのように宣告されたという。その後、治療によって劇的な回復を見せ、「余命は未定」というところまで奇跡的な復活を遂げたことは、日本の映画界にとっても慶事であるといえよう。

 だが撮影中、宣告を受けた監督はそんな未来が訪れることは予想していなかったはずだ。だから本作『花筐/HANAGATAMI』は、明らかに「最後の映画」として撮られている。それは本作が、ほぼ全てのシーンに鬼気迫る熱気を感じる、あまりにも濃密な168分の長尺になっていたことからも理解することができる。ここでは、そんな大林監督の想いが叩きつけられた、圧倒的な執念を感じる本作について、可能な限り深く考えていきたい。

 まず本作で面食らうのは、「ドギツイ!」とまで感じさせる、強烈な色彩の画面と、目もくらむような編集である。複数の映像、音楽、音声が重なり合い、絡み合う。さらに印象的な場面やフレーズが何度も反復されることによって、時間の感覚も狂わされていく。その多重的な映像や音響には、美しさもあり、一種の醜怪さをも含んでいる。大林宣彦監督は、前二作『この空の花』、『野のなななのか』と、とくに近年になって、いままで以上にアヴァンギャルドな演出に踏み込んで観客を驚かせたが、本作はそれらの実験性をさらに超えていくような凄みがある。一つひとつのシーン、カットが“狂っている”のだ。

 例えば、窓から見える眺め一つとってみても、その凄まじさが分かる。海の先に島が見えるはずの景色は、上空から島を撮ったような角度で、不自然かつ露骨に合成され、まるでその窓を持つ邸宅自体が天空に浮き上がっているように感じられるし、地球に激突するかのように巨大な姿の月が部屋を覗くこともある。学校の教室の窓からは砂浜が見えるが、すぐ数メートル先は海という、波にすぐさま押し流されてしまいそうな距離感だ。

 この“あり得ない”窓の風景に代表されるような、整合性やリアリティをお構いなしに逸脱していくような本作の表現手法というのは、新藤兼人監督の遺作『一枚のハガキ』の強烈なイメージにも見られる通り、他人の目をおそれず、また細かいところにとらわれずに表現していこうという躊躇の無さを感じさせる。それは、生と死の境界に位置することで得られる達観なのかもしれない。フランスの画家、クロード・モネやエドガー・ドガが最晩年に、低下し続ける視力で描きあげた絵画作品にも、その超越的な境地を感じることができる。

 狂っているのは画面だけではない。窪塚俊介が演じる主人公「俊彦」の、必要以上に幼さを感じさせる異様な演技をはじめ、満島真之介が演じる親友とともに馬で渚を走るシーンの、笑ってしまうほどの妖しい光景。そして、その容貌から学生には決して見えない長塚圭史が演じるクラスメートの奇怪な行動…。それらはユーモアを持って描かれていることもあり、ギャグであるかのように表現されている。だから本作は、部分的にはコメディーとして楽しめる作品になっているのだ。そんな彼らの青春は、「戦争」という現実へと飲み込まれていく。

 常盤貴子が演じる、俊彦の美しい叔母は、俊彦が恋をする従妹を看病し続ける、天使のようにも、美男の学生を篭絡する悪魔のようにも描かれ、その「ダブルイメージ」が、多重に撮影・編集された映像とシンクロし、本作の「文学性」と映像における「実験性」を結びつける。そうやって表現される叔母の姿は、まさに強さと弱さ、貞淑と情欲を併せ持った「人間」そのものの多重性を感じさせるのだ。

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