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渡邉大輔の『PARKS パークス』評:「場」の構造を含めて「作品」にする野心作

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変化する映画体験

 今日、「映画を観る」という環境や体験が、かつてと比較して様変わりしていることは周知の通りです。たとえば、わかりやすいところでいえば、現在のシネマコンプレックス(シネコン)で多角的に展開されている「ODS」(Other Digital Stuff)が挙げられるでしょう。これは、いわゆる「非映画デジタルコンテンツ」などと呼ばれ、映画館上映のデジタル化により、通常の映画作品上映に限らない、リアルタイム配信を含めた多種多様なコンテンツを上映する新たな興行形態です。アイドルグループのライブコンサートやスポーツ試合の中継などをはじめとする、こうした映画館上映の多角化は、わたしたちの映画鑑賞のあり方にも新たな動きをもたらしています(とはいえ、映画館での多角的な興行やアトラクション的な鑑賞体験はすでに戦前にもあったもので、これらがまったく「新しい」と考えることには注意が必要ですが)。

 たとえば、日本国内では、2014年の大ヒットディズニー映画『アナと雪の女王』の「シングアロング上映」で一躍注目を集めた、映画を観る客席の観客が能動的・主体的に盛りあがりながら楽しむ鑑賞スタイルは、2016年に邦画の世界でも本格的に浸透しだしたといってよいでしょう。今年6月に続編が公開予定のアニメ映画『KING OF PRISM by PrettyRhythm』(16)の「応援上映」や、こちらも大ヒットした庵野秀明総監督の『シン・ゴジラ』(16)で展開された「発声可能上映」などがそうでした。すでによく指摘されているように、現代のデジタル化した映画文化では、個々の「作品」は、もはやはっきりとした輪郭をもったパッケージであり、そのパッケージを観客がただ受動的・固定的に鑑賞するというものではなくなりつつあります。むしろオンラインゲームのように、上映される映像と、それを楽しむ観客の「体験」や、それらを取り巻く「環境」そのものの構造全体を含めて、「作品のようなもの」とみなすあり方が一般的になりつつあるわけです。

『PARKS パークス』は野心作

 いずれにせよ、そうした傾向は、何もいま挙げたようなシネコン系のメジャー大作ばかりとは限りません。むしろ似たような試みは、より先鋭的な形でいたるところで行われています。

 瀬田なつきの新作長編『PARKS パークス』(17)も、そうした野心作の一本です。瀬田が脚本・監督・編集を務めた『PARKS パークス』は、映画公開直後の2017年5月に開園100周年を迎えた吉祥寺の「井の頭恩賜公園」を舞台にした爽やかな青春映画です。

 物語の主人公は、井の頭公園の舗道の脇に建つアパートに住む大学生の吉永純(橋本愛)。同棲の約束をしていた恋人とは別れてしまい、大学から届いていた留年通知も見逃し、そのおかげで卒業単位のゼミ論も危ないというツイてない日々を過ごしている。あるとき、そんな彼女のもとに木下ハル(永野芽郁)と名乗る見知らぬ高校生が突然訪ねてきます。面食らう純に、ハルは彼女の部屋にはかつて自分の父親の若き日の恋人が住んでいたのだと語ります。彼女の話によれば、亡くなった父親の晋平(森岡龍)についての小説を書こうとしていたところ、晋平が保管していた学生時代の恋人からの手紙を見つけた。山口佐知子(石橋静河)というその恋人の手紙に記された住所が純のいま住んでいるアパートの部屋だったようなのです。

 この妙な巡りあわせをゼミ論の題材にすることにした純は、ハルと一緒に佐知子の消息を探すことになります。純のアパートのオーナーであり、晋平と佐知子の若き日の友人でもあった寺田さん(麻田浩)の紹介で現在の佐知子の住まいを突き止めるも、偶然出会った孫の小田倉トキオ(染谷将太)から、佐知子が少し前に脳梗塞で亡くなっていたことを知らされます。がっかりするハルと純でしたが、その数日後、トキオから佐知子の遺品のなかからオープンリールの古いテープが見つかったことを知らされます。そのテープには、若い頃の晋平と佐知子の歌が吹きこまれていました。だが、テープが傷んでいたせいか、ノイズ混じりの歌は途中で途切れてしまう。純とハルとトキオは、この晋平と佐知子の60年代のフォークソングを自分で完成させることを思い立つのです。

「場」を主人公にする『PARKS パークス』の構造

 さて、瀬田にとっての初の商業監督デビュー作となった『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』(11)以来、じつに6年ぶりとなる長編監督映画第2作『PARKS パークス』は、以上のように通常の劇場用長編映画作品として仕上がっています(というのも、へんないいかたですが)。

 とはいえ他方で、本作ではさきほども述べたような、現代の映画文化のパラダイムにふさわしい、本作の描く物語が舞台となる、あるいは本作が上映される「場」自体を浮き彫りにするような趣向が凝らされているといってよいでしょう。その印象を強めているのは、むろん、本作の企画のそもそもの前提となっている、井の頭公園、あるいは吉祥寺という固有の「場」=環境のもつ意味です。純やハル、トキオといった登場人物たちは本作の全編を通して吉祥寺と井の頭公園を縦横に歩き回ります。いわば本作の主人公は、吉祥寺や井の頭公園といった「場」のほうなのです。もともと本作は、2014年に映画ファンから惜しまれつつ閉館した吉祥寺の名物ミニシアター「吉祥寺バウスシアター」のオーナー、本田拓夫氏の企画によって立ちあがった経緯があり、また吉祥寺の映画館、吉祥寺オデヲンでも上映されています。なおかつ、5月2日には、「劇団ロロ」によるコラボ的な舞台公演「パークス・イン・ザ・パーク」も井の頭公園内で上演されました。この舞台は残念ながら筆者は未見ですが、おそらくは映画の舞台である井の頭公園に映画も観た観客たちが集い、映画の物語から派生した舞台を当の井の頭公園で祝祭的に鑑賞するという、多層的な観客体験が繰り広げられたことと思われます。

 ある場所を舞台にして、登場人物――その多くは、純たちのような少年少女や青年たち――が軽やかにダンスをしたり、周辺を歩き回ったりするのは、短編『あとのまつり』(09)をはじめ瀬田作品において初期からの特徴的な演出です。『PARKS パークス』でもまた、映画の冒頭、満開の桜のなかを自転車で春の風に吹かれながら走り抜ける純の姿が流麗なキャメラワークで捉えられ、そして映画の最後でも、あたかも円環が閉じられるかのように、同じような井之頭公園で自転車を漕ぐ純の姿が映されます。すなわち、『PARKS パークス』という映画の構成自体が、リニアに進んでいく物語というよりは、むしろノンリニアな、ひとつの「場」を幾度も「周遊」しながら螺旋的に回帰していく構造を伴っているのです。

  また、『PARKS パークス』にはそうした映画作品の内外を多層的に横断する構造を巧みに繰りこんだような演出も見られます。たとえば、映画のなかでハルの父親たちが遺した60年代のフォークソングを現代ふうに完成させるために、純たちは大型のレコーダーマイクを携えて井の頭公園内のさまざまな「自然音」を採取していきます。そして、完成した楽曲「PARK MUSIC」を、これもよく晴れた日の公園の舗道で声をかけて誘ったミュージシャンたちとゲリラ的にライブ演奏するのです。つまり、劇中のいたるところで奏でられる純たちの音楽もまた、吉祥寺や井の頭公園といった固有の場=環境に遍在している無数の「音」を繰りこむことによって出来上がっているものです。

 もとより、瀬田の作品にとって「音楽」は重要な要素となってきました。以前、リアルサウンド映画部に寄稿した山戸結希監督の『溺れるナイフ』(16)のレビュー(「情動的な映像演出の“新しさ”と、昭和回帰的な“古さ”」)でも書いたことですが、山戸や瀬田をはじめ、三宅唱や空族(富田克也、相澤虎之助)、入江悠、深田晃司など、近年の多くの若手映画監督が手掛ける作品において総じて「音楽」がことのほか重要な要素となっていることはよく知られています(この点は、蓮實重彦的な「視覚」偏重の映画批評が限界を迎えていることも意味していると思います)。『PARKS パークス』でも音楽監修をトクマルシューゴ、主題歌を相対性理論が手掛けているほか、サウンドトラックには大友良英をはじめ錚々たるアーティストが参加しています。そもそも「音楽」(音響)という媒質=メディアも、デジタルメディアと同様、ひとつのエーテル的な流れであり、はっきりとした輪郭をもたず、それが流れる「場」に遍在・増幅・反響してたゆたうものです。その意味で、『PARKS パークス』における音楽の効果的な演出は、映画のなかの場所性=環境のもつ魅力をより増幅させることにつながっているといえるでしょう。実際、映画のクライマックスで純の「声」は、放送室のマイクからスピーカーを通じて、井之頭公園中に響き渡ることになります。

 あるいは、「映画作品」の内部と外部を相対化してみせることで、作品自体が支えられている足場を観客に意識化させることが一種の「メタ映画」という構成につながるとすれば、やはり『PARKS パークス』にはその物語自体にも「メタ映画的」な演出が凝らされています。たとえば、冒頭から現れる純のナレーションもそうなのですが、作中では井之頭公園内で自然音を採取しているシーンなどで、しばしば登場人物たちはキャメラ目線になります。こうした身振りは、『PARKS パークス』という映画の「虚構性」を観客に強烈に意識させるでしょう。あるいは、より露骨なシーンでは、純がいる部屋の壁が彼女の心象風景という設定で、いきなりふたつに分裂し、その後ろにスクリーンが現れるというシアトリカルな演出も登場する。こうした異化作用的な演出は最近の邦画だと、自身も演劇人である三浦大輔が監督した『何者』(16)などでも見られましたが、これもまた映画が上映される環境のほうへ観客の意識を向けさせることになるでしょう。

      

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