>  > 『The OA』は壮大な「踏み絵」だ

賛否両論のNetflix海外ドラマ、『the OA』は8時間にわたる壮大な「踏絵」だ

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ザル・バトマングリ
ブリット・マーリング
宇野維正
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 Netflix配信中の『the OA』は、物語の最後の最後、高校のカフェテリアでのシーンのためだけに全8話があるようなドラマだ。そのクライマックスがまさに奇跡のようなシーンであることによって初めて作品として成立するという、危うい綱渡りの上に成り立っているドラマだ。

 このクライマックスは、シーン自体の出来が奇跡的であると同時に、このシーン自体が「奇跡」そのものを描こうとしているという、二重の意味で奇跡のようなシーンだ。そして、それまでのドラマの積み重ねを共に体験した上で見ると、この二重の試みは奇跡的に成功している。
 
 評価は賛否両論のようだが、賛と非が別れる理由も、もちろん好き嫌いはあるが、それ以前にその極端にバランスを欠いた構成ゆえ、という部分が大きいんじゃないか。クライマックスのシーンに向かういわば前振り部分だけ取って評価すれば、正直いくらでも貶しようはある。「いつまで経っても主人公が話しているだけ」「その内容も矛盾だらけ」「監禁部屋のシーンばかりで単調」「スピリチュアルっぽい」等々。

 圧倒的な「賛」の立場から見ても、正直に言って「非」の意見もよく分かる。でも、そこを乗り越えて何とかクライマックスまで辿りつけば、話の粗も、矛盾も、退屈さすら、実はクライマックスのための壮大な準備だったことを体感できるはずだ。

 7年前、突如消息を絶った主人公がまた突如現れ、田舎町の養父母の元に帰ってくる。盲目だったはずの彼女はなぜか目が見えるようになっていた。そして、主人公は町はずれの空き家に、それぞれ事情を抱えた4人の高校生と1人の中年女性教師を集め、空白の7年間について語り出す。自分は仲間と共に地下室に監禁され、臨死体験を研究するマッドサイエンティストの実験台になっていたというのだ。主人公の話はにわかに信じがたい内容だったが、5人は次第に引き込まれていく……というのが、『the OA』の大まかな筋になる。

 でも、実際にドラマを見て戸惑う人も多いはずだ。この筋だけ聞けば、主人公の話に影響を受けた5人が現実の世界で具体的なアクションを起こすことを予期するのが普通だと思うが、5人はいつまでも車座になって話を聞いているだけで、胸躍る冒険なんかいっこうに始まらないのだ。

 しかも、その主人公の話の内容もどこまで信じていいのかよく分からない。主人公の回想のはずなのに、主人公がいないはずの場面が平気で出てくる。ずっと監禁されていたはずなのに、なぜかキューバでロケされた場面まであるのだ。そもそも、目が見えなかった頃の話を堂々と映像で回想する、という神経からして凄い。臨死体験の場面で出てくる謎の女性のバンドTシャツっぽいうさんくさい服装もどうかしている。だいたい、その女性の名前からして「カトゥーン」=漫画だ。

 『the OA』は、2000年代に一時代を画した『LOST』のような、大きな謎で強引に興味を引っ張るTVドラマに意図的に似せて作られている。

 さらに、同じくネットフリックス配信で全8話構成の超常現象を扱ったドラマだから、超ヒット作『ストレンジャー・シングス』をつい重ねて見てしまう、という視聴者心理もあざとく利用して、話への興味を繋ぎとめようともしている。主人公の謎の女性=OAは、『ストレンジャー・シングス』のイレブンと同じく不思議な力を使うと鼻血を流す。高校生のうちの1人が自宅でマリファナを吸いながら『ストレンジャー・シングス』を見る場面まであるのだ。

 でも、こういった先入観から来る期待は見事に裏切られることになる。主人公の話の謎に合理的な説明がつくことはないし、『ストレンジャー・シングス』のような冒険活劇が始まることはない。この物語の目的はもっと別のところにある。

 その目的とは何か。それを一言で言えば、「奇跡」であり、「奇跡を信じること」だ。奇跡を信じ、それを実践することだ。それを映像として具体的に形にすることだ。

 宗教的に聞こえるなら、まさにその通りとしか言いようがない。主演ブリット・マーリングと監督ザル・バトマングリのコンビは、この物語を通じて彼らなりの宗教的ヴィジョンを伝えようとしている。このコンビの特異性は、これまでの作品でもずっと同じ宗教的ヴィジョンを描こうとし続けていることだ。『the OA』はその到達点だ。

 このドラマについて、ニューエイジとかスピリチュアルっぽい、つまりうさんくさい匂いを感じる人は多いと思う。それもその通りとしか言いようがないが、このドラマはもっと根本まで踏み込んでいく。乱暴に言ってしまえば、ここで示されている宗教的ヴィジョンは、新興宗教よりもむしろ信仰と実践を重んじる伝統宗教、具体的にはカトリックのそれによく似ている。

 キリスト教徒とは単に神の実在を信じる人のことではない。神の子であるイエス・キリストが十字架にかけられ死んだのち、復活したということをそのまま信じる人のことだ。さらに言えば、奇跡の実在を信じる人のことだ。そして、盲人の目を癒した、というのもキリストが行ったとされる奇跡の中の一つでもある。

 つまり、主人公が語る話を信じるかどうかは、ほとんどそのまま「信仰」の問題だ。極論を言えば、このドラマのほとんどの部分を占める回想パートの破綻・矛盾・嘘くささは、それでもこの話を信じ最後までついてこられるかどうか、という「踏絵」なのだ。OAの話を聞いている5人と共に、視聴者も「踏絵」を突きつけられている。

 このドラマの真の凄さはそのさらに奥、「踏絵」を踏まず信仰を貫いた先に何があるのか、という点を蛮勇をふるって映像で具体的に示したことだ。それが、冒頭に挙げたクライマックスのカフェテリアのシーンだ。

※次ページより、ネタバレ要素を含みます。

     
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