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『この世界の片隅に』が観客の心を揺さぶる理由 「感動」の先にあるテーマとは

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 『この世界の片隅に』を観た人たちが異口同音に「これはすごい、観た方がいい」と周囲に薦めている。公開館数が比較的少ないため、超大ヒットと呼べる興行収入には達していないものの、そのなかでの本作の支持率や熱量は凄まじく、アニメーションを含めた日本映画に強烈なインパクトと、今後に小さくない影響を与えるような作品になったと言って間違いないだろう。熱狂的な人気を誇る『この世界の片隅に』が、多くの観客に心揺さぶる感動を与え、深く愛される理由を、いくつかの角度からじっくりと考察していきたい。

観る者の心をえぐる作品構造

 太平洋戦争のさなかに青春時代を生きたひとりの女と、周囲の人々の生活を丹念に描いていく、こうの史代の同名漫画を原作にした本作は、ほぼ完全再現といえるほど忠実に原作の内容をなぞっている。よって本作は、漫画として描かれた原作の数多くのエピソードをひとつの映画のなかにそのまま詰め込んだことで、かなり変則的な構造になったといえる。

 だが、それを苦にさせないというのは、ぼ〜っとした性格の主人公"すず"のほんわかとしたキャラクターと、とぼけたユーモアによる、ほのぼのとした笑いが各エピソードに用意されているからだ。とくに前半、観客の興味を持続させるのは、喜劇映画としての面白さだ。

 食糧難や灯火管制、空襲の恐怖など、戦時中の極限状態のなかでも、すずは目一杯楽しそうに振る舞う。好きな絵を描いたり、道草を摘んだり、武将の考案したという節米料理を作ったりなど、つらく苦しいことですら少しでも楽しい経験に変えていき、空襲にすら芸術的な美しさを見出してしまうすずの姿は、多くの作品でつらく苦しく描かれてきた戦時下の女性像とは異なる魅力にあふれていて新鮮である。音楽を担当したコトリンゴの、か細く優しい音楽世界は、すずの個人的な感覚と共鳴しているように感じられる。

 それでも、日本軍の戦局の悪化という史実に従って、ほのぼのとしていた作品の内容が、どんどん凄絶でシリアスになっていく。「戦争」という出来事が、暴力的な力によって、作品のジャンルそのものを捻じ曲げ、全く違うものに変えてしまっているようにも見える。牧歌的に描かれる愛らしく愉快なすずたちが、むごたらしい運命に翻弄されていく様子は、その生活が丹念にユーモラスに描かれてきたからこそ、胸をえぐられるような喪失感を観客に与える。原作同様に、この「落差」が作品の大きな仕掛けである。

 『嘆きの天使』という、1930年に撮られた、人間の狂気ともの悲しさを極限まで描くドイツ映画の名作がある。映画史上に残るいたましい光景が印象的なこの作品は、軽いお色気コメディーとして始まる。しかし、作り手による周到な誘導によって、観客は思いもよらなかった世界に運ばれ、心の準備もないままに打ちのめされてしまうのだ。そして、安心して見ていた前半部分すらも、異なる意味を持って立ち上がってくる。『この世界の片隅に』の衝撃もまた、このような作品構造からもたらされているといえよう。

あの時代を「現代」としてとらえること

 過去の時代を扱った作品の多くは、現代人から見た、「理想化された過去」を描きがちである。過度に郷愁に満ちた光景やセピア色のくすんだ色調、現代に失われた素朴であたたかな人々のつながりや、未来に希望を託し歴史の一部として社会に貢献する高潔な人々、もしくは想像を超えるような野蛮な人々…。いずれにせよ、過去の世界を現代の感覚から切り離された「異質なもの」として表現してしまう。それを見る私たちは、そのような過去の世界を、当然「過去」のものだと意識してしまう。

 『この世界の片隅に』が特異なのは、作り手自体が過去にいるような精神状態で、現在のものとして過去を描こうとしているという点である。私は本作を観ている間、自分が生きていないはずの太平洋戦争の時代の生活を懐かしく思うという、不思議な気持ちを味わっていた。そして物語が進むうちに、映画を観ている自分はいま昭和の時代に生きていて、つい先日起こった戦争を描いた映画を鑑賞しているのだという気分になりすらした。

 能年玲奈改め"のん"が広島弁で声を演じるすずは、「ありゃ」などと現代からすると"おばあちゃんことば"で話すが、これが古いものでなく、当時の若者の話し方として自然で愛らしく思える。牧歌的でかわいらしい絵柄のアニメーションでありながら、男女のきわどい心情や三角関係が生々しく描写されるという点からも、当時の人間を理想化された異質な存在にさせまいとする意志を感じるのである。だからこそ観客は、これを自分自身の話だとして見ることができる。

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