佐藤健は映画俳優として過小評価されているーー観客の内面を映し出す『何者』の演技の凄み

佐藤健は映画俳優として過小評価されている

 映画賞などというものにどれだけの価値があるのかはわからないが、それでも思う。佐藤健は演じ手として、不当なまでに評価されていないと。たとえば『るろうに剣心 京都大火編』ならびに『伝説の最期編』における彼の演技に、なぜ最優秀主演男優賞が与えられなかったのか。明らかに偏見が邪魔をしていると考えられる。単にカッコいいひとが、カッコいいアクションを披露している。その程度の認識でしか、彼の表現を、(観客ではなく)映画業界の人間たちが捉えることができていなかった。ただ、それだけのことではないか。誠に情けない。

 緋村剣心の殺陣だけに瞳を奪われていると、気づくことはできないかもしれないが、佐藤は剣心を、歩行と沈黙によってかたちづくっている。殺陣が独特なのではない。歩行が独特なのだ。歩行が独特だから、たとえば後ろ姿だけでも、彼が何者かがわかる。彼がどれだけの凄腕で、どれだけ凄まじい過去を背負っているかを、佐藤は歩行によって伝えている。そして、沈黙。いや、もっと身体的に静止と言ったほうがよいかもしれない。激闘が始まる直前の、剣心の静止は、これから起きるであろう惨劇のありようを、文字通り無言のまま引き受け、その上で下す決断としての静止であり、物言わぬ動かぬ瞬間こそが最高にドラマティックなのだということを表している。そして、それはきわめて映画的な表現に他ならない。

 黒沢清監督の『リアル〜完全なる首長竜の日〜』でも、不当に無視された。特異な設定の下、あの、魂だけが抜け出して、器としての身体が、夢遊病のように彷徨いつづけているかのような、非常な困難な芝居を成立させていたにもかかわらずだ。

 わたしは佐藤健を映画俳優として高く評価している。だが、『何者』の彼の表現には心底驚かされた。なぜなら、『るろ剣』や『リアル』のようなハイクオリティの方向に演技が向かっていなかったからである。

 簡単に言えば、ハイクオリティの演技とは、難しいことを鮮やかに達成することだ。『るろ剣』にしても、『リアル』にしても、大雑把に言えば、映画的なケレンが存在する。ケレン味ある世界観の中では、たとえば歌舞伎で言うところの、見栄を切る、そんな鮮やかさも効果的だ。『るろ剣』も『リアル』も、誰もがおいそれとは真似ができないようなことが平然とおこなわれており、そのことによって映画に強度がもたされていた。

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 だが、『何者』は違う。この作品には、実に映画的な仕掛けが施されてはいるが、それが『るろ剣』や『リアル』のような、全体に敷き詰められたムードとしてのケレンにはなっておらず、いや、むしろ、そうしたケレンが派生してしまっては、その仕掛けそのものが沈没してしまう。端的に言えば、ある種のミスリードが必要な映画なので、演じ手にとってジャンプ台になるようなケレンはほとんどないと言ってよい。

 では、佐藤健はどうしたか。

 何もしなかった。これがわたしの結論である。『何者』の佐藤健は、もはや観る者に「凄い」とさえ呟かせない、超越的な次元で、芝居を繰り広げている。

 もちろん、何もしていないわけではない。何もしていないように見える、ということだ。精神論的な意味ではなく、そこでは唯物的に、無私、というものが映っている。

 無私の境地。

 これは、表現としては最強ではないだろうか。

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