宮台真司の『シン・ゴジラ』評:同映画に勇気づけられる左右の愚昧さと、「破壊の享楽」の不完全性

宮台真司の『シン・ゴジラ』評

「行政官僚制の日常」と「破壊の享楽」

 『シン・ゴジラ』(7月29日公開/庵野秀明監督)は想像外に興味深い映画でした。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(2012年)以降の庵野秀明監督の不発ぶりに加え、特撮監督が『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』(2015年)で味噌をつけた樋口真嗣氏なのもあって、期待水準を高く設定していなかったこともあるかもしれませんが、間違いなくエキサイティングでした。

 本作は従来のシリーズと違って、ゴジラに主題的な重心がなく、かと言ってヒーローに焦点が当たる訳でもない。敢えて言えば「日本の行政官僚制」が主人公で、そのパフォーマンスに焦点が当たります。その話は後で本題にするとして、僕がこの作品を見る前に、どこに注目しようと思っていたのかについて話しましょう。キーワードは「破壊の享楽」になります。

 この夏休み、僕の3人の子供たちは、AppleTVで利用できる定額制動画配信番組Huluを使ってウルトラシリーズと怪獣映画を見続けています。3歳になったばかりの末っ子男児は、ウルトラマン!と叫びながら、横蹴りや前転をしつづけています。そう、昔ながらの光景ですね。でも、この光景が何を意味するのかについて、僕らはちゃんとは考えて来なかったようです。

 先日公開終了したダン・トラクテンバーグ監督『10 クローバーフィールド・レーン』(2016年を見たのを機会に、モチーフが響き合うマット・リーヴス監督『クローバーフィールド/HAKAISHA』(2008)を見直しました。『ゴジラ』シリーズの影響をもろに受けたと監督や主要スタッフが告白するこの映画は、影響の核が「破壊の享楽」の継承にあることを示しています。

 映画には、2001年の米国同時多発テロに於けるツインタワー崩落映像の丸パクリとも言える表現が登場し、まさにそこで観客が狂喜したのでした。ポリティカル・インコレクトネスを承知で言えば、この映画は、ツインタワー崩落映像が、人々に「破壊の享楽」を体験させたはずだと、主張します。実際、ツインタワー崩落の中継映像を見ながら万歳三唱した論壇人を知っています。

「破壊の享楽」を説明する精神分析理論

 「破壊の享楽」は、連載で紹介して来たジャック・ラカンが注目する無意識の働きです。ヒトは4万年前にうたと区別された言語(音声言語)を獲得し、1万年前から農耕牧畜の開始と同時に定住を始め、三千年前から書記言語の獲得によって大規模定住化します。こうした過程を通じて、ヒトは独特な心の働きを示し始めるのです。一口で言えば、無意識を獲得したわけです。

 動物には本能があります。本能はエネルギーと生得的プログラムの組合せです。ヒトには欲動があります。欲動は生得的プログラムを欠いたエネルギーです。欲動だけでは社会もパーソン(人格)も構成できないから、成長の過程で習得的プログラムが「後から」インストールされます。習得的プログラムは言語的に構成されます。だから、社会もパーソンも言語的に構成されます。

 社会もパーソンも、言語プログラムの自己運動からなる自動機械です。ところで、悲しいうたを聴けば悲しくなり、楽しいうたを聴けば楽しくなるのと違い、「悲しい」「楽しい」という言葉を聴き或いは文字を見ても、悲しくなったり楽しくなったりしません。即ち、うたにはミメーシス(感染的摸倣)の機能があるけど、言語にはそうした動機づけの機能が備わっていません。

 一方、言語は否定性と表裏一体で、主題化は主題の否定からなる地平を伴います。「美しい」は「醜い」を、「Aである」は「Aでない」を地平にします。従って、言語的な指令プログラムである法「~するな」に服することは、「~せよ」という指令の抑圧を伴います。だから、法が支える社会を生きる営みは、「法を犯せ」「禁忌を破れ」といった指令からなる無意識=超自我を、自動生成します。

 だから、法に従うことで「秩序の安心」を生きる営みは、必然的に、法を嘲笑する「破壊の享楽」の可能性を蓄積します。つまり、「秩序の安心」は自動機械的に「破壊の享楽」を引き寄せます。ラカンの考えでは、言語プログラムである法に従って社会を生きる者は、必然的に「破壊の享楽」に身を震わせる可能性を手にします。これがフロイトを継承したラカンの考え方です。

日常を描き込むほど「破壊の享楽」が増す

 彼の考えでは「破壊の享楽」は誰もが持つ無意識の自動機械的な傾きです。それを1954年の段階で映像化していたのが本多猪四郎監督『ゴジラ』であり、怪獣映画やウルトラシリーズは『ゴジラ』が切り開いた「破壊の享楽」の提供を切れ目なく継承してきたのですが、僕たちがそれを必ずしも自覚していなかったところを、『クローバー~』が改めて事実を教えてくれたわけです。

 僕の考えでは、キリスト教文化圈では「秩序の安心」が神に属するものなので、「破壊の享楽」を主題化する営みが憚れますが、かかる軛のない日本では「破壊の享楽」を主題化し易い。思えば、大友克洋の『童夢』(1981)に始まる一連のデブリ表現も「破壊の享楽」です。『クローバー~』は、そうしたゴジラ以降の「破壊の享楽」の伝統を咀嚼した上で、高度に再現したものです。

 『クローバー~』の達成は、充実した日常描写が鍵です。前半に30分を超える長いパーティー場面があります。カメラマンを入れずに俳優から俳優へとハンディカムを手渡し、俳優らはアドリブで演技をしています。僕らが学校で絶対に習うことがない口語英語が飛び交う中、僕らは愉しみに浸りつつも、「怪獣が出てくる映画じゃなかったのか?」と疑問に思い始めます。

 すると、いきなり地響きが起こり、停電になります。非常階段に出てみると、遠くで閃光が走り、あたかも「9.11」のような光景が展開されているのです。天空から隕石めいたものが降り注ぎます。逃げるために階下に降りて路上に出ると、ビルの合間に怪獣めいたものの姿が見えて、「自由の女神」の首が吹っ飛んできてゴロリンチョ。ここで観客たちが歓声を上げます。

 すごい映画です。僕らはあれを見て、怪獣映画というのはそもそもポリティカリー・インコレクトな(政治的道義的に正しくない)表現であったことーー大規模な破壊がラカン的な意味で享楽jouissanceである事実ーーを改めて思い知りました。「ツインタワーの崩落映像が実は享楽だった」という誰もが喉元まで出かかってた言葉を、「YES」と言い切ってしまっているのです。

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