『ドロメ』を“新感覚ホラー”と呼ぶべき3つの理由 気鋭の監督が仕掛けた「手法」に迫る

『ドロメ』が“新感覚ホラー”と呼べる理由

 映画であれ、なんであれ、「新感覚〜」という宣伝文句がその通りであることは稀だが、この『ドロメ』には、それ以上ふさわしい言葉がないかもしれない。その理由にまずあげられるのが、ダブル・アングル構成だ。

 本作は主人公が、小関裕太の「男子篇」と、森川葵の「女子篇」に分けられていて、その両方を観て作品の全貌が明らかになる仕様になっている。しかし、異なる軸で同時に展開していくストーリーというのは決して珍しいものではない。むしろ通常映画では、 客観的な視点で様々な人物のドラマを見せていくものだ。だったら、何も2篇に分けず、最初から1本にまとめればいいじゃないかという意見もあるだろう。だが、本作はこの構成だからこそ、成功していると言える。なぜなら、非常にギリギリのラインで成立している作品で(そこには後で詳しく触れる)、仮に1篇にまとめていれば、破綻は免れなかっただろう。ダブル・アングルに分けたことによって、単体が観やすくなっている。情報の不足は生まれるけれど、それが進行の妨げになることもなく、別サイドで回収されるのだろうという予想も楽しめるのではないか。

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「女子編」主演・森川葵

 「新感覚」なる第2の理由は、その内容と監督・内藤瑛亮の独自の演出にある。学園ドラマとホラーがいっしょになることは常だが、本作はそれが混じり合わず、奇妙に分離している。例えば、トイレで化け物に出くわし悲鳴をあげる恐怖シーンがあったと思うと、次は男女全員で花火を振り回して踊る、まるで青春映画のクライマックスのようなシーンに変わる。つい20秒前に涙ぐんでいた少女が、すぐに満面の笑みを見せるのである。観ている側としては、戸惑わずにはいられず、ついていけなさを味わうのだが、それこそ内藤監督の狙いのはずだ。このような刹那的に変化する心情や状況こそが、高校生のリアルな感覚なのではないか。それは彼ら彼女らの会話、やり取りにも反映されていて、決して作り手や観客の都合によって動かされるのでなく、彼ら彼女らが自然に躍動するように作られており、それに納得させられる。こうした高校生らの嘘臭さの無い実体感を描かせれば、やはり内藤監督の手腕は随一。

 そして、本作はホラーというジャンルに対しても、挑戦をしている。本来であれば、幽霊やクリーチャーなどは恐怖の対象として圧倒的優位に立つ。しかし、 『ドロメ』において、それらは携帯カメラで撮られるものだったり、恋の告白に立ち会ったり、はてはドラゴンクエストのスライムばりにめった斬り……とにかく従来のパワーバランスで人間側と対峙しているわけではないのが新鮮。しかもそれゆえ、バイオレンスシーンで胸熱と悲しみが同時に押し寄せてくるのだ。

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「男子編」主演・小関裕太

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