速水健朗が考察する、『進撃の巨人』後篇で描かれた「壁」の意味
劇場版『進撃の巨人』前篇(「ATTACK ON TITAN」)は、謎の巨人たちが壁の外から侵入してきて人類の日常を破壊する怪獣映画だった。
これが近未来なのか、過去なのか、そのどちらでもない架空の場所なのか、始めはその世界観を推測しながら観ることになる。
人々が市場でものを売り買いしている場面からは、市場経済が機能していることがわかり、人々が逃げ込む宗教施設が存在するということからは、宗教も存在するということがわかる。巨人に立ち向かう軍隊と、敵に対抗する技術(起動装置)も存在する。壊れた壁の修復という作戦遂行のために集められた新米兵士たちは、出稼ぎ、口減らし、孤児、シングルマザーであったりと、それぞれに訳ありだが、その理由は前近代的なものと現代的なものが混ざっていておもしろい。こうした具合に、世界観の細かい部分が次第に見えてくる。
ただし、前篇はあくまでもグロテスクな巨人が人を喰らう怪獣、または巨大ゾンビ映画だった。特撮やアクション、グロテスク描写などが好きであれば、どうやら楽しめる内容であるようだ。「どうやら」という注釈付きの評価をするのは、僕個人は、その手の映画が苦手だからである。
それが、後篇になると打って変わり、壁の内部の闘争が描かれるようになる。前篇が正統派怪獣映画だとすると、後篇は、人間対人間の闘争が描かれるポリティカル・サスペンスだ。内容の変化に伴い、読み解くべき要素が急に増える。
巨人の襲撃に遭った人類は、3重の壁を築き、その中で限られた資源を分け合って生きることになった。かつてばらばらだった人間社会は、巨人という共通の敵ができることでひとつの共同体として結束する。
人々の争いの種なんて知れている。人種、宗教、国境を巡る紛争、経済イデオロギーの対立などだ。それらを巡る争いは、築かれた壁の内側では消失する。人々は限られた土地、食糧、資源を分け合って生きるようになった。つまり、この世界ではそれらを平等に分配する機能を持った中央集権的な政府が存在し、それはうまく機能している。
後篇の冒頭で登場する言葉「特定知識保護法」は、書物を所有できなくするための法律のようだ。人々は、100年かけて書物をこの世から葬った。この世界の文明は、巨人によって滅ぼされたのではなく、壁の中で人間が、自主努力で捨てたのである。「知識、科学、技術」は、人のいがみ合いや争いの元であるとされた。政府はこれらを法と権力で規制した。
権力への不満は、外敵である巨人への恐怖心に向かうことでごまかされている。実際、こうした外敵をつくり、不満をそらすやり方は、一党支配、独裁制の国ではよく用いられるものだ。
こうした壁の内側の統治状況が理解できたところで、その中央政府の政治体制にたてつくクーデターの物語が始まる。
そのリーダーは、前篇では巨人との戦いにおける最大の功労者として登場したシキシマ隊長(長谷川博己)である。彼は、巨人という外敵を利用して自らの権力の正統性を付与するというマッチポンプの構造を告発し、反旗を翻す。それが後篇の物語だ。
「狼を怖がって柵の中にいるのは家畜」
つまり、壁とは巨人から身を守るためのものではなく、家畜の自由を奪うための檻である。それに気がついているシキシマは、主人公エレン(三浦春馬)にそれを説き、自ら率いる反乱軍に誘うのだ。
主人公のエレンは、この世界のマッチポンプの有り様に関しては、多くの知識を有していない。ただ、壁の外にある世界に関心を持つ、自由への憧れを秘めた存在である。
本来、共闘が可能なはずのシキシマとエレンだが、二人は対立する。シキシマは、内側の壁を破壊し、巨人たちを内部に引き込むことで、政権の崩壊を目論んでいる。家畜を目覚めさせるためには、多くの犠牲が必要であると考えているのだ。一方、エレンはそういったエリートの傲慢さが許せないのだろう。二人は、対立する。また、互いの間にいる女・ミカサ(水原希子)の存在も、いがみ合いの素となっている。「壁の破壊」を「コロニー落とし」に「ミカサ」に「ララァ」 を代入すると、もしかしたら理解の助けになるかも知れないが、まあ余計なお世話だろう。