宇多丸が語る、名著『ヒップホップ・ジェネレーション』をいまこそ読むべき理由(後編)

宇多丸「ヒップホップの総合的な批評はありえない」

磯部:ただ、日本のヒップホップ史をまとめるとしたら、『ヒップホップ・ジェネレーション』のような本にはならないでしょうね。まず、あそこまで直接的に政治と絡めて語るのは難しい。

宇多丸:そもそも、アメリカと日本では、人々と政治運動の距離感に差があるでしょ。アメリカでは、民主党か共和党のどちらを支持するか、立場を表明するのが当たり前のことになっているし。もちろん、日本でも政治的なメッセージを発信しているラッパーだけを線で繋げば、そういう歴史も書けるだろうけれど、あくまでメインストリームではないからね。

磯部:アメリカでも、ラッパーは政治的なものが主流ってわけじゃないですけどね。例えば、前回も話したように、昨年公開されて大ヒットした映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』(F・ゲイリー・グレイ監督、15年)は、N.W.Aをコンシャスに描き過ぎている印象もありました。彼らが象徴するギャングスタ・ラップの政治性っていうのは、むしろ、欲望を剥き出しにした結果、図らずも政治的になってしまうってことだと思うんですが。

宇多丸:ドクター・ドレーやアイス・キューブにとって、かなり都合の良い再歴史化をしているよね。でも、過去を振り返ろうとしたとき、物語化しないと認識できないところもあるから、やむを得ない部分もあると思う。できるだけフェアな物語を選ぶとか、その程度の差しかない。ヒップホップは、ロックの“反体制”みたいな、わかりやすい旗印もないし。あえて言うなら、“儲けたい”くらいで(笑)。とにかく、どこをピックアップして論じるかの問題でしかない。ただ、新装版の解説で高橋芳朗さんが書いているように、今はまたヒップホップと社会との繋がりが強くなっているから、やっぱり本書のアプローチは改めて読む価値があると思う。

磯部:おっしゃる通り、ジャフ・チャンは本書を描く上で、ヒップホップの社会的な背景や、社会運動との接点をクローズアップしているわけで、これも前回話したように、それによって音楽的な解説は薄くなってしまっているのも否めない。『ユリイカ』の日本語ラップ特集(青土社刊、16年)も様々な描き手が様々なアプローチをしていましたが、刊行記念イベント(「日本語ラップ批評ナイト」、文禄堂高円寺店、7月29日)で、「ヒップホップの総合的な批評はあり得るのか」という話になったんですよ。

宇多丸:そのときの議論に直接参加してたわけじゃないから、どういう文脈でそういう話になったのかもわかんないし、なんとも言い難いけど……ただ、例えば映画に総合的な批評はあり得るのかといえば、答えはあり得ない、ということに尽きるとは思う。なぜなら、どれだけ総合的に論じたって、その総和が作品そのものとイコールになるわけじゃないんだから。結局のところ、覚悟を決めて線を引いて、そこになんらかのクリエイティビティを込めていくっていうのが、批評というものなんじゃないんですか? とは思うけど。

磯部:では、宇多丸さんの『ヒップホップ・ジェネレーション』に対する“決定版”なる評価も、本書が、あくまでもジェフ・チャンなりに、ヒップホップ・カルチャーに線を引いて歴史化したものである、ということを踏まえてのものだと。

宇多丸:そうだね。黎明期に関しては、一番しっかりしてるのは間違いないと思うけれど、これがすべてではない。とりあえず、ヒップホップの歴史を知りたいと考えたときに、最初の補助線とするには最適じゃないかな。例えば、『ゲットダウン』(バズ・ラーマン監督、16年)も、本書と合わせて観ると、理解の度合いが違うと思う。

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