>  > 市川哲史、70年代来日公演を振り返る

ポールが日本の留置場で唄った「イエスタデイ」は実話だった 市川哲史が70年代の来日公演を回顧

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市川哲史
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 昨年12月19日土曜日。いちばん美味いと私が断言する《松岡》を皮切りに、朝から《がもううどん》《たむら》《長田in香の香》と一人レンタカーで廻って讃岐うどんを堪能したシメは、なぜか〈三人太鼓deヒットパレード〉キング・クリムゾン来日公演@サンポート高松であった。

 まだ鼻腔や口腔に残るいりこの芳しい残り香を愉しみながら、「21馬鹿」や「クリムゾン・キングの宮殿」、「エピタフ」に「冷たい街の情景」に「太陽と戦慄」に「スターレス」の生演奏をほくそ笑みながら眺める私を、まだいたいけな中学3年だった31年前の私がきっと、「この罰当たり者めが!」と断罪したことだろう。

 その昔は日常的な海外アーティストの来日公演すら夢のまた夢だったのに、あのクリムゾンのライヴがうどんのついでに四国で観られる世になるとは、悦ぶべきか哀しむべきかいまいちぴんとこない今日この頃なのだ。

 それにしてもかつての来日公演は、いろんな意味で大変だった。

 いまでこそオール・スタンディングのライヴも珍しくなくなり、ウォールオブデスにサークルにモッシュダイヴにクラウドサーフまでもが、BABYMETALによって急速に一般化が進行している。モッシュッシュだもんなあ。

 1970年代の洋楽ライヴ、もといコンサートの観客は全員整然と着席しており、起ち上がるだけでも相当の勇気を要した――と思われがちだが、中期あたりからは演奏が始まると同時に、実はステージ前に殺到するようになっていた。しかも暗黙の了解で、見逃されていたのだ。

 それでも1978年1月、レインボー@札幌中島スポーツセンター公演で19歳の女子大生が殺到した観衆の下敷きになって死亡するに至り、再び着席の世界に。しかし喉元過ぎればてなもんで、我先でステージ前に群がる光景がいつしかまた日常化する。

 80年代前半の私は名古屋の大学生だったが、当時の愛知県は〈洋楽=ヘヴィメタル〉な特殊すぎる文化圏で、ニューウェイヴやらニューロマやらテクノやら新しいモードのロック百花繚乱期だったにもかかわらず、非ヘヴィメタのライヴ会場は閑古鳥の巣窟だった。あのU2の初来日公演なんて、「どうせ入らないから」と瀬戸市文化センターで行なわれたほどだ。名古屋から見下されたバンド、U2。わははは。

 それだけに客がまばらなライヴでは、私も開演と同時にステージ前にダッシュしたものだ。当時飛ぶ鳥落としまくりのユーリズミックス初来日だって、名古屋市公会堂に千人もいなかったんだもん。

 だが結局1987年4月に、日本のパンクバンドではあるがラフィン・ノーズの日比谷野音ライヴで起きた、死者3名に及ぶ将棋倒しが決定打となり、その後場内整理のバイトが門番のごとく客席中に配置されるようになったのは、周知の事実である。

 ことほどさように来日公演事情もすっかり様変わりしているのだけれど、かつて我々リスナーにとって最も理不尽だったのは、やはり突然の来日中止に尽きる。まあ中止自体は現在でも珍しくないが、昔はその理由が不条理だったのだ。

 ローリング・ストーンズの初来日ライヴが1973年1月の武道館5日間公演に決定すると当然、前売券は即座に完売した。しかし公演20日前の1月8日に、大麻所持の前科を理由に外務省がストーンズの入国拒否を発表し、結局来日公演は中止の憂き目を見た。

 よほどショックだったのか単なる便乗なのか、辺見えみりのお父さん・西郷輝彦がなぜかサンタナ「ブラック・マジック・ウーマン」のイントロを明らかにパクった曲「ローリング・ストーンズは来なかった」を唄ったのであった。

 ウイングス絶頂期のポール・マッカートニーの1975年単独初来日公演も、訪日直前になってポール&リンダの薬物犯罪歴でビザが取り消され、武道館3日間公演が幻になった。ストーンズは外務省だったがポールは法務省の発表――この管轄の違いは何だったんだろうな。

 そして1980年1月、今度こそのポール・マッカートニー&ウイングス初来日公演が決定。武道館6+大阪・名古屋各2の全10公演がソールドアウトと、5年前の悲劇を払拭するかのように我々は胸膨らませて待ちわびたわけだ。そして1月16日、ポールたちは成田に降り立つ。と思ったら次の瞬間、ポールは空港内にて大麻不法所持で現行犯逮捕され、そのまま警視庁本部2Fの留置場に9日間も勾留されちゃったのである。

 国外退去処分で公演「再」中止ってこのおっさん、単なる馬鹿か? と心底思った。

     
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