乃木坂46のアンダーライブに見えた希望の兆し 伊藤寧々卒業と研究生活動辞退に寄せて

 2014年の乃木坂46は、かつてなくライブへの注目度が高まっている。もちろん、神宮球場に3万人を動員してファイナルを迎えた夏の全国ツアーも大きかったが、今年の乃木坂46のライブを象徴するのは、なによりアンダーメンバーによる連日のライブだ。そのアンダーライブは現在、六本木ブルーシアターで上演中のセカンドシーズンが折り返しを迎えている。昨今のグループアイドルシーンの趨勢にほとんど逆行するように、乃木坂46というグループはライブ活動にかける比重が小さい。そのこともあって、ライブパフォーマンスは今もってこのグループの弱点といえる。アンダーライブは、その弱点を地道に解消していくような頼もしさをもって、日々充実の度合いを増している。

 ところで、このアンダーライブにはもうひとつ、先月グループからの卒業を発表した伊藤寧々の、活動の集大成としての意味も込められている。単独ライブを日常的に行なうことのなかった乃木坂46にあって、連続するライブがメンバー卒業へのラストスパートになることは稀有だ。彼女の所属期間最後の日々をライブ活動で締めくくれることは、メンバーにとってもファンにとっても得難いものであるはずだ。

 しかし、この伊藤寧々の卒業が、理想的なお膳立てのもとに迎えられているのかといえば、そうすっきりとした感慨を抱けないのが実情でもある。率直に言えば、どこか不完全燃焼の部分を抱えているように見えてしまう。連日のライブによってメンバーたちがパフォーマンスを向上させていく充実感の中に、そんな彼女の卒業をめぐる物寂しさが交錯する。それが、現在のアンダーライブセカンドシーズンである。1期生伊藤寧々の卒業とアンダーライブの意義、今回はここを基点に乃木坂46の現在地を考えてみたい。

 あるメンバーが、次なる目標のためにアイドルグループから「卒業」するとき、基本的にそれはポジティブなものとして受け止められるべきだろう。特にAKB48系の場合、グループでの活動は、メンバー各人が次の段階に向かうためのステップとして明確に位置づけられている。だからこそ、それぞれの志向に応じた活動への道はグループ所属時から多く設けられているし、その中で彼女たちはグループとしての活動と、卒業後の姿を模索するための活動を並行して行なう。もちろん、48グループ自体のダイナミズムが、エンターテインメントとして当初の予想をはるかに超えて世に浸透していることで、各人のステップの場というコンセプトはともすれば見えづらくなっている。しかし、48グループ自体のエンターテインメントとしてのネームバリューはまた、各メンバーに将来への種を蒔くための機会やコネクションを多くもたらし、彼女たちはその機会を利用していく。このサイクルが48グループの強みと言っていい。

 しかし、「48グループ」には通常含まれない、別働隊のような立場にある乃木坂46の場合、その条件はちょっと違う。伊藤寧々が卒業発表に際して、「次のやりたいことが見つかった」という前向きな言葉を伴っていたにもかかわらず行き詰まりの感を拭えなかったのは、所属時にパフォーマーとして自らを試す場を、十分に与えられていなかったためだ。この傾向は彼女に限らず、乃木坂46が総体として持っている課題である。

 ひとつには、選抜メンバー枠の多くが事実上固定されていることで、そこから漏れたメンバーはマスメディアで活路を見出す機会がなかなか持てないことが原因である。もっとも、グループ自体が認知されるために、ある程度同じメンバーが顔になることは必然でもある。問題は、メディア露出の少ないメンバーが自身をアピールし試す場が、乃木坂46の場合、著しく乏しいことの方だ。その結果、所属はしているものの、パフォーマーとしてファンの目に触れる機会も少なくなる。その難しさは、昨年から加入した2期生になるとさらに顕著だろう。伊藤寧々の卒業発表にあわせて、2期生の矢田里沙子、米徳京花二人の研究生の「活動辞退」も発表されている。研究生の立場にある二人の決断に関して、「卒業」という言葉さえ与えられないことに、ファンからは不満の声も大きかった。それは、単に言葉だけの問題ではなかったはずだ。上が詰まっていると同時に、日常的にファンやスタッフにアピールする機会もなく、正規メンバーへの道も不透明。一年以上、乃木坂46の一員として過ごしてきた二人に向けられた「活動辞退」は、この閉塞した状況を象徴するような言葉だったのだ。

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