宇野維正がセカオワの現在地に迫る
ポップミュージックの最前線へ SEKAI NO OWARIの「挑戦」を読み解く
「夢をよく見るだけです。小さい頃からすごく夢をよく見る。それが全部、自分のファンタジーを象っているもので。だから、いつもファンタジックなことを思い浮かべているわけではなくて、ずっと人生のうちの半分を過ごしている夢の中の世界が、今俺がクリエイトしている世界観。たまにその夢の世界に引き込まれすぎて、こっち(の世界の自分)がすごいボーッとするときがある」
これは、8月15日に公開されるSEKAI NO OWARIにとって初の映画作品『TOKYO FANTASY』劇中のFukaseによるモノローグだ。フランスの映像作家ラファエル・フリードマンが監督を務めた本作は、ドキュメンタリー、フィクション、アニメーションなど様々の映像表現によって現在のSEKAI NO OWARIの4人の姿をとらえた作品となっている。監督をフランス人の映像作家に託した理由は、バンドの完全な部外者から見た4人のそのままの姿を、何の先入観も固定観念もなく映画に収めてほしかったからだったという。この「何の先入観もなく」「何の固定観念もなく」というのは、SEKAI NO OWARIというバンドを運営していく上で、彼らが常に念頭に置いているテーマだと言ってもいいだろう。冒頭に引用した劇中のFukaseの発言にも、過去の特定の音楽やムーブメントに結びつけられることに慎重な彼らの姿勢がよく表れている。
しかしながら、皮肉なことに現在のSEKAI NO OWARIほど、様々な先入観や固定観念によって各方面から偏見に晒されているバンドも他にいない。それは、若い世代を中心とする急激な人気上昇とその影響力増大によるわかりやすい反動だと言えばその通りだが、中でもテレビのバラエティ番組やCMなどでの露出を増やしたことによって「作品をちゃんと聴いたことがない」多くの野次馬の関心まで集めてしまったことの影響は少なくないはずだ。
改めて思うのは、ここ10数年、彼らのように「お茶の間の人気者」となることを引き受け、そのことによる強い逆風を全身で受けてきたバンドが他にいなかったということだ。露出を極端に絞ってバンドの神秘性を保つこと、そしてファンの飢餓感を煽ること。それは人気バンドを運営していく上での一つの方法論だが、特に90年代半ば移行、この方法論があまりにも支配的になっていったことで、80年代にテレビの力を最大限利用してきたサザンオールスターズや安全地帯などのバンドの在り方、あるいは90年代の一時期のL’Arc-en-Cielや小沢健二のまるで絨毯爆撃のようなメディアプロモーションの記憶がない世代は、彼らの積極的(ある意味で攻撃的とも言える)なメディアとの付き合い方に面食らってしまったのだろう。
たとえば小沢健二は、今でこそ伝説のミュージシャンとして頻繁に語られ、90年代を過ごしてきた心ある音楽ファンはみんな彼のことを支持していたように錯覚されている向きもあるが、彼が集中的にテレビの音楽番組やCMで露出をしていた90年代半ば当時の実態はまったく異なっていた。フリッパーズ・ギター時代からファーストソロアルバムの頃まで音楽ファンの中でマニアックな支持を得ていた彼は、セカンドアルバム『LIFE』のリリース前後に一気にテレビでの露出を増やしていった。これまで、ライブがある度に駆けつけていた自分は、その後たった1年弱で起こった客層のドラスティックな変化に大いに戸惑ったものだ。フリッパーズ・ギター時代に少なくとも3割くらいはいた男性のオーディエンスは雲が散るようにいなくなり、女性のオーディエンスも小沢と同年代の上の世代から減少していき、武道館などの大きなハコでやるようになってからは「王子様ぁー!」と叫ぶ10代の女性オーディンエンスが客席をほぼ占有するようになった。まだ自意識の強い20代前半の男だった自分にとって、それはとてつもなく居心地の悪い体験だったし、音楽ファンを前にして「小沢健二が好き」だとはなかなか言えないような空気が急速に形成されていった(それでも自分はずっと言い続けてきたし、ライブにも通い続けてきたけどね)。