『Baby Steps』を通じて知る、ベネット・フォディの“現在地” インディーゲームの20年が繋いだもの

ベネット・フォディの“現在地”

 インディーゲームの金字塔として知られる、“壺おじ”こと『Getting Over it With Bennett Foddy』をご存知だろうか。数々のゲーム配信者、VTuberがプレイし、「ゲーム実況の登竜門」として評価を受ける、インディーゲーム屈指の名作だ。

 同作のタイトルには作者であるベネット・フォディ(Bennett Foddy)の名前が記されている。ゲーム実況を見るのが好きな人、VTuberを好きな人、あるいは『Steam』でゲームを遊んだことのある人なら、「なんとなく知っている」「聞いたことはある」であろう“壺おじ”だが、その作者の人となりについては、意外と知らない人が多いのではないだろうか。

 そこで今回、リアルサウンドテックではSF作家にして批評家、そしてインディーゲームの熱心なプレイヤーでもある千葉集による「ベネット・フォディを中心に見るインディーゲーム小史」を、全七回にわたってお届けする。大流行するインディーゲームの現在の起源と、重要な役割を果たしたフォディの足跡を知る手がかりとなれば幸いだ。

 最終回となる今回は、フォディの2026年現在における“集大成”とも呼べる作品『Baby Steps』について。20年の時を経てフォディが温めてきたアイデアが世に送り出される。

人はなぜ歩くのか

 『APE OUT』のリリースから10カ月ほどが経った2019年12月、ゲイブ・クッジーロがこんなことを言い出した。「『QWOP』が“ちゃんとしたゲーム”だったら、っていうコンセプトでなにかやれないかな? つまり、あの物理っぽさと『APE OUT』みたいなプロシージャルなアニメーションを組み合わせたらどうなるだろうかって……」

 元教え子の不遜な物言いにフォディはたじろぎながらも、反対を口にした。技術的にむずかしい、というのがその理由だ。

 しかし、クッジーロは意を曲げず、数日後にプロトタイプをこしらえ、恩師に見せてきた。PCの画面のなかで、簡単な立体の組み合わせでできた人形が不器用に動いている。フォディもこうおもった。

「『Death Stranding』が、本当にやろうとしていたことを真正面からやったらこうなるのかもしれないな」と。

 『Baby Steps』は、そこからはじまった。

『Baby Steps』

 自分が当たり前にできることについて、ひとはひどく傲慢になりがちだ。それに手間取るひとを見かけると、「こんな簡単なことをなぜちゃんとできないのか?」と責めたり哀れんだりする。

 現実を簡略化したモデルであるビデオゲームにおいて、その傾向はさらに加速する。「みんながあたりまえにできること」はかぎりなくシンプルに抽象化され、プレイ中にほぼ意識すらされないレベルで操作に溶けこむ。

 たとえば、歩行がそうだ。たいていのゲームで歩行は、ゲームパッドの左スティックを倒せばいともたやすく達成される。歩行はそのくらい簡単な動作なのだと、だれもが思い込んでいる。その前提を証す良い例が、ウォーキングシミュレーターというジャンルの祖である『Dear Esther』だ。FPS(一人称シューティングゲーム)の『Half-Life 2』のMODでありながら「FPSから(銃撃などの)伝統的なゲームプレイを取り除いていったら何が残るのか?」というアンチゲーム的な問いから生まれた『Dear Esther』は、アクションを歩行のみにあえて制限することによって、「インタラクションや困難への挑戦こそゲーム」という既存のテーゼをひっくり返し、論争を引き起こした。

ポーツマス大学の研究者だったダン・ピンチベックによるMOD版『Dear Esther』(2008)。プレイヤーを引きつける要素が物語だけになった場合、それはゲームとして成り立つのか?」という問いが原点にある

 こうした実験は「歩行はメカニクスですらない」という無意識の前提が共有されているからこそ成立する(*1)。ゲーム研究者のパヴェル・グラバルツキが提起するように、FPSからシューター要素を引くとウォーキングシミュレーターに、歩行要素のほうを引くとオンレールシューターあるいは立ち位置固定のシューターになるのだが、前者のゲーム性が議論の対象になる一方で、後者はゲームであることに疑念を持たれない。

 歩くにしろ撃つにしろ、そこにはプレイヤーの意志と操作と技術が介入しているはずだ。なのに、どこかで線引きがなされている。それは、現実において歩行が射撃と比べてあまりに日常的で透明な行為であることも関係しているだろう。

 だが、この「歩行」は、特に人類の歩行とは、本来複雑精妙でイレギュラーな行為なのだ。四足歩行からむりやり二足歩行へと移行した人類は、つねにアンバランスな重心移動を要求されるはめとなり、一説には「一歩一歩転びそうになるのを毎回微調整しながら前進している状態である」とさえいわれている。事実、人類は内耳にある三半規管という小さな器官がすこし不調をきたしただけで、たちまち平衡を欠いてしまう。

 わたしたちが簡単だとおもっていることの大半は、実はまったく簡単ではない。だからこそ、フォディたちは歩くことをテーマにしようと決めた。

『Baby Steps』

 『Baby Steps』は、ただひたすら歩きつづけるゲームである。主人公のネイト(ネイサン)は中年であるにもかかわらず、家に引きこもり、カウチでピザを食べながらテレビを四六時中眺める日々を送っている。その彼がある夜、突然、異世界へ飛ばされる。元の世界に帰るには、険しい山や森を踏破しなければならない。

 ところが、引きこもり生活で足腰の衰えたネイトには立って歩くことさえ一苦労だ。プレイヤーはネイトの両足にそれぞれ割りふられた操作によって、赤んぼうのよちよち歩きのようにぎこちなく彼を前進させていく。

 そう説明すると、堕落して男らしさを失ったネイトが厳しい環境に耐えて山を征服し、己が男性性を取り戻していく話に見えるかもしれない。だが、フォディはそのまったく逆、『Baby Steps』を「挫折した男性性(Failed Masculinity)」の話であると明言する。

 たとえば、本作には総計2時間超のカットシーンが挿入されている。「自立した男として成長していく」物語であれば、物語の進行ごとにネイトの人間的成長を実感できるようなストーリーラインになっているはずだ。

 だが、『Baby Steps』にいくつか存在する「男らしさへの言及」はどれも皮肉に満ちている。たとえば、男性器をさらけ出したロバたちにフラタニティのノリでからかわれるくだりがある。ネイトにとっては(大半のキャラ同様)あまり愉快でない存在なのだが、ついロバたちのホモソーシャルな輪に付き合おうとしてしまう。

 ネイトは途中で助け舟や助言を与えられるのだけれど、そのたびに「そんなのいらない」とついつい意地を張って拒んでしまう(*2)。

 助けられることは男のプライドを傷つけ、自分を小さく感じさせてしまう、とフォディは指摘する。

視界不明瞭な洞窟のステージでNPCからランタンを渡されても、一度は断ってしまう

 もっとも象徴的なのが「男砕き(Manbreaker)」と呼ばれる絶壁だ。本作でも最高の難所であり、ここを乗り越えるのはクライマックスにふさわしい「挑戦」といえる。まともに攻略しようとおもえば数時間は要するだろう。

階段と「男砕き」

 ところが、絶壁の隣に、ジムという男が用意した階段があって、それを登れば数分で簡単に上まで行けてしまう。階段を使用した場合はジムを「御主人様(Lord)」と呼ばねばならなくなる屈辱を喫するものの、実質的なペナルティはない。逆に階段を使用せずに「男砕き」を踏破した場合には、ジムに自分を「御主人様」と呼ばせることができる。だが、特に特典や実績がもらえるわけではない。というか、階段を使用した場合の実績は存在するものの、「男砕き」を自力で踏破したときの実績はない。ここにも「ゲーム中の実績をコンプリートする」というゲーマーの執着に対する皮肉が見える。

 ほかのカットシーンも既存のオープンワールドゲームに対するメタな批評的言及に満ちている。通りすがりのNPCたちが「フックショット」や「ミニマップ」についてたびたび言及するものの、本作ではそれらの機能やアビリティを実装しておらず、ネイトの旅が楽になるときはついぞ来ない。

 ビデオゲームには「挑戦」の要素が欠かせないという。実際、ゲームで設定された困難を乗り越えるごとに、プレイヤーは自分を多少なりとも誇らしく感じるだろう。

 2010年代前半に起きたウォーキングシミュレーターに対する論争もそうした意識が引き金となった。海外における一部のゲーマーコミュニティでは〈真のゲーム(Real Game)〉という概念が声高に叫ばれる。〈真のゲーム〉とは「より多くのインタラクションやより難しいパズルを具え、プレイヤーにより多くのことを要求し、クリアするのに時間がかかる」ゲームである(*3)。

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