ベネット・フォディを中心に見るインディーゲーム小史 第七回(最終回)
『Baby Steps』を通じて知る、ベネット・フォディの“現在地” インディーゲームの20年が繋いだもの

真のゲームとまがい物のゲーム
ゲーム研究者のミア・コンサルヴォとクリストファー・A・ポールによれば、〈真のゲーム〉について議論が盛んになったのはカジュアルゲームが流行りだした2000年代初頭のことで、2010年前後に『Farmvile』を巡り、「業界外からやってきて金儲けのために既存のゲーム文化を壊す新興企業 vs ゲームらしいゲームを守る開発者やゲーマーたち」という対立の構図ができあがった。ソーシャルゲームが非ゲーマー層を大幅にとりこんだことによる、ゲーマーたちのアイデンティティクライシスという面もあるかもしれない。フランク・ランツのくだりでも触れたクリッカーの祖である『Cow Clicker』も、こうした対立を背景にしている。
コンサルヴォとポールによれば、ゲーマーコミュニティにおける〈真のゲーム〉とは複雑なシナリオや美麗なグラフィックや練り上げられたゲームメカニクスといった要素を具えたゲームであり、クリック作業が主な上に課金制によってプレイが歪められてしまうソーシャルゲームは邪悪な〈まがい物のゲーム(Unreal Game)〉であるとされる。

基本プレイ無料の課金モデルが浸透し、『原神』などの複雑なシナリオや美麗なグラフィック、大幅なアクション性を具えた大作がならぶ昨今では、「ソーシャルゲーム」ということばの持つイメージも変化してきている(*4)。が、あいかわらず、「真のゲーマーは〈真のゲーム〉をやるもの」という価値観は生き残っている。
その一例が、2019年に起きた『SEKIRO』のチートMOD使用を巡る炎上騒動だ。ゲームメディア『PC GAMER』の編集者が「『SEKIRO』をクリアするにあたってチートMODを使ったが特に罪悪感をおぼえていない」と題したコラム記事を投稿し、それがゲーマーコミュニティから大きな反発を受けた。
特にあるTwitterユーザーが編集者へ放った「貴様はゲームを騙したのみならず、自分自身をも騙した(You cheated not only the game, but yourself)。貴様は成長しなかった。上達もしなかった。ショートカットを選び、ゲームから何も得なかった。貴様の勝利は虚ろな勝利だ。なにひとつ賭けられておらず、なにひとつ得られなかった。それを知らないでいるというのは、惨めなことだ」という批判ツイートはミームとなり、さまざまなパロディを生んだ。
多くの炎上がそうであるように、ここにはゲーム誌編集者としての職業倫理を含めた多面的な議論が含まれている。
が、その一側面として「高難度かつ難易度固定であるフロム・ソフトウェアのゲームが〈真のゲーム〉としてゲーマー文化圏で広く認められていること」が、土台の一部であるのは疑いえないだろう。
そして、上記のミームが短文中心のマッチョな文体であることからもわかるように、〈真のゲーム〉という価値観は古くからのゲーマー文化における男性中心主義的傾向と結びつきが強い。
大手掲示板サイトRedditのゲーマーコミュニティにおける投稿を、ジェンダー関係の言説を中心に分析したマーカス・マロニーらは、ゲーマーたちがパズルゲームや任天堂作品、カジュアルゲームといった、難易度が比較的低く、競争的ではないジャンルのゲームを「女性向け」と見なしていることを指摘している。いっぽうで、「男性」である自分たちは複雑な操作や熾烈な競争を要求されるFPSやストラテジーを遊ぶものだ、という暗黙の階層づけがなされている。
フォディが「挫折」させたかった「男性性」とは、そのようなゲーム文化にひもづいたマインド、つまりは有能感(Feeling of competence)だ。フォディはこう述べている。
「大人は経験によって培ってきた有能感を妨げられることを嫌う。デザイナーはその弱点をつきたがる」
そして、『Baby Steps』における「歩くこと」に集約されているのはそうした有能感だ。
「“歩くのは得意?”と訊かれたら、誰だって“そりゃあ、得意だよ!”と答えるでしょう。ビデオゲームには超人的なパワーを持ち、すさまじく有能で、誰からも尊敬される人物が山ほど登場します。そうした文化の影にあって、“挫折した男らしさ”を扱うゲームを作ろうとするならば、みんなが当たり前に『自分は得意』だと信じているものを題材にしてはどうだろうと考えたんです」
とはいえ、いくら批評的な意図があったとしても、挫折や敗北はゲームにおいてプレイヤーがもっとも味わいたくない感情だ。アンチゲームの名のもとにプレイヤーを辱め、その世界の神である開発者の優位を誇りたがるだけのゲームはいくらでも存在する。
だが、『Baby Steps』の目指すところはそこではない。彼は伝えたいのだ。「負ける」ことの楽しさを。























