ベネット・フォディを中心に見るインディーゲーム小史 第五回
ベネット・フォディとデジタル文化への内省 “ゴミ山”産まれのディオゲネスが山を登る理由

壺おじさんはB級ゲームの夢を見るか
種は10年前に播かれていた。
2007年8月13日、デレク・ユウがTIGSのブログで『Sexy Hiking』というフリーゲームを紹介した。Jazzuoという謎めいたチェコの開発者が作りあげたそのゲームは、パックマンのような顔だけのキャラクターが360度回転するハンマーを使って木や山を登る、といったコンセプトで、理不尽なまでの難易度を誇った。
ユウはこの「自分の根気以外を頼れない」ゲームについて、「プレイヤーの90パーセントはクソみたいに貧相なグラフィックと冒涜的な難度におののき、価値ゼロのゲームだと切り捨てるだろう。9パーセントはなんとかゲームを進め、独自のゲームメカニクスやそこに孕まれたユーモアを評価するだろう。残りの1パーセントは『ネオ表現主義的ゲームの正典に数えられてしかるべき傑作』と称えるはずだ」と評した。

ユウはたちまちこのゲームに魅了され、紹介記事投稿と同日に、TIGSourceフォーラムにおいてゲームジャムの開始を宣言する。その名も「B-games Competition」だ。
「映画にB級映画やカルト・ムービーがあるように、ビデオゲームにもB級ゲームがある。映画にはエド・ウッドとロジャー・コーマン(*2)が、我々にはJazzuoとMDickie(*3)がいる。きみたちもきっと見ただろう、プレイしただろう、我々は悪いゲームについて正しいやりかたで話す必要がある。
というわけで、みんなの声にお応えして、TIGSourceは『B-games Competiton』を開催する! 我々は素晴らしい個性を持ったひどいゲームを見たい! ギリギリで動作しつつもガタガタなゲームプレイ、脳の原始的で倒錯した部分を刺激するチープなグラフィック、凡人の理解を超えた突飛なテーマ。私たちは、ある種の『言葉では言い表せない何か』を持ったひどいゲームを見たい。ひどくて、ハッピーで、それでいて真摯な、インディーゲームコミュニティからしか生まれない種類の気概を持ったゲーム。
あなたには、史上最悪の、本当に最悪なゲームを作る才能があるだろうか?」
この呼びかけに、ヨナタン・ソダーシュトロムやアダム・サルツマン、ペトリ・プルホといったTIGS常連勢が応じた。「B級」という名乗りには、荒削りで実験的な作品を量産する当時のアマチュア開発者の自嘲とプライドが込められていたのだろう(*4)。
そして、Googleでエゴサーチをしている最中にコンペの存在を知ったJazzuo自身も参戦を表明する。大物の参戦にコミュニティは沸いた。
われらがベネット・フォディはというと――このコンペに姿を現さなかった。実はその時点での彼は、『Sexy Hiking』にさしたる感銘を受けていなかったのだ。
彼が『Sexy Hiking』を再発見するのは、NYUで教えるようになってからのことだった。あるクラスで『Sexy Hiking』をプレイさせてみたところ、学生たちの一部は昔のフォディのようにすぐ投げ出し、別の何人かはユウのように熱中しつづけた。
フォディは考えた。ゲームは、表現技術の進歩によってすぐに賞味期限の切れてしまうメディアだ。だが、「マリオ」や「ロックマン」といった本当の名作は時代を超えてプレイヤーを熱中させる魅力を持つ。もしかしたら、『Sexy Hiking』のようなB級ゲームにもそうした魅力がそなわっているのではないか。
ユウはかつて「B級ゲームとは『真剣な努力をしない』ということではない」と語った。ある種の粗さやぎこちなさを真剣にデザインするのであれば、B級ゲームは広く遊ばれるに値するなにかとなるのではないか。
そして、そうしたB級ゲームの器はフォディが抱いていた思想とも合致していた。のちにフォディは、「『Sexy Hiking』が自分のやろうとしていたことに似ていると感じた」と話している。本来、ゲームにおいて「歩く」や「ジャンプする」といったアクションはプレイにおいてほとんど意識されない。ボタンひとつで実行されるように抽象化され、そのプロセスも自動化されている。ゲーム中で用意される「眼の前を塞いでいる岩を乗り越える」といった課題を処理するにあたっては、いちいち肉体的動作を細分化している余裕はないのだ。
だが、『Sexy Hiking』のようなゲームはそうした初歩の動作を問い直し、極限まで細部を凝視することでアクションそのものを課題として設定する。『QWOP』が「歩くこと」を根源から問い直したように。
NYUに赴任してからしばらく経ったある日のこと、フォディはHumble Bundleから連絡を受けた。ゲームを作らないか、というオファーだ。Humble Bundleはゲームのキーや電子書籍などをセット売りにし、その販売価格(購入者は下限以上であれば好きな金額を設定できる)の何割かを慈善団体に寄付するというシステムで知られるプラットフォームである。

当時、Humbleは月額サブスクリプション利用者への特典として、Humble Monthlyという特別なバンドルを用意していた。その目玉がHumble Originalと呼ばれる完全新作インディーゲームだった。『A Short Hike』や『Uurnnog』といったいくつかのインディーヒットは、もともとこのHumble Originalが初出だ。フォディはこのプログラムに選ばれたのだった。
Humbleの注文は「普通なら作らないようなヘンテコなゲーム」だった。さらに、Humbleのメインユーザー層はゲームパッドを持っていないから、という理由でキーボードとマウスで動かせるものを、という条件もついた。
フォディは頭を巡らせた。「普通なら作らないようなゲーム」とは、なんだろう?
そして、こうおもった。「クリアしてもらおうとまったく考えていないゲーム」なら、誰も作ろうとはしないんじゃないか?
このとき、『Sexy Hiking』がフォディの頭をよぎった。それに、B級ゲームも。
「物事は特定の文脈で消費され使用されるために作られ、その瞬間が過ぎると、ゴミに変わる。テクノロジー的な文脈では、それらの瞬間は秒単位で過ぎ去る。
時間とともに、私たちはインターネットと呼ぶこの広大なデジタル埋立地に、ますます多くの廃棄物を放り捨ててきた。それは今や、汚れのない未使用品を数と重量で大きく上回っている。私たちの周りのすべてが文化的ゴミであるとき、ゴミは新しいメディア、デジタル時代の共通語になる。ゴミから文化を築くことはできるが、それはゴミの文化にしかならない。Bゲーム、B級映画、B級音楽、B級哲学。
おそらくこれがデジタル文化だ。創造性の泉の灰の山、ゴミの怪物的な山。私たちがこれまで考えたすべてのものの埋立地、広壮で、無窮で、整理されていない」(『Getting Over It』作中ナレーションより)
では、その「ゴミの山」を乗り越えるゲームを作ることができたなら?

傍から見れば虚無から突如生じた異形のゲームであるけれども、『Getting Over It』はこれまで見てきたソロ開発者としてのフォディの思想と人生の結晶ともいうべき作品だ。
下半身が釜に入った禿頭の男が、登山用のヨセミテハンマーを振りまわし、崖を登る。このメカニクスは『Sexy Hiking』と大差ない。
しかし、ゲームとしてはよほど丁寧にデザインされている。進行は一定区間で小割りされていて、その「峠」を乗り越えるとプレイヤーは達成感をおぼえるし、エリアによって景色も変わっていくので眼に愉しい。説明されていない細かいテクニックを発見する歓びもある。『Getting Over It』の粗さは、あくまで見た目上のことにすぎない。
B級にふさわしい不可思議な要素もある。背景のアセットの安っぽさ、ハンマーをふりまわすときの操作の固さ、そして「ミスで落下すると数十分、数時間の進行が巻き戻る」という理不尽なペナルティだ。
そして、なぜだかときおり挿入されるナレーション。フォディ自身の声で挿入されるそのナレーションは、ときには偉人の名言を引用し、ときにはネット文化について言及する。
その内省的な語り口と、ディオゲネス(甕の中で眠っていたという古代ギリシャの哲学者)という主人公名、不条理な難度があいまって、深遠さとチープさを同居させた無類のプレイフィールを宿らせた。
<第六回へつづく>
【脚注】
*1…ちなみに日本のメディア記事では「単色のアートスタイルにしたのはフォディの提案」ということになっているものの、その裏付けとなる証言は見当たらない。*2…どちらもアメリカにおけるインディペンデント系低予算カルト映画の代名詞的な存在。
*3…本名、マット・ディッキー。2000年から現在に至るまで一貫してインディーシーンで活動している個人開発者。低劣なグラフィックとあまり洗練されていないゲームプレイの作品で、独特の存在感を放っている。
*4…ちなみに、テリー・キャヴァナーは参加を熱望しながらも、期日までの投稿に間に合うことが叶わなかった。






















