ベネット・フォディを中心に見るインディーゲーム小史 第一回
“壺おじ”を生んだ「ベネット・フォディ」とは何者か 個人開発インディーゲームの歴史を変えた重要人物の足跡を辿る

哲学者からロックスターへ? 青年期のフォディ
やがて、フォディにも大学受験の時期が来た。
コンピュータとゲームに熱中していたフォディ少年だったが、数学があまり得意ではなく、そのうえ、IT産業にしろゲーム産業にしろオーストラリアという土地では将来像を描きにくかった。
けっきょく、彼はメルボルン大学で哲学を含む複数の学位を専攻する。それは学習意欲の表れではなく、迷いの表れだった。「どの分野に対しても半端な努力しかしなかった」と彼はのちに自嘲気味に述懐している。
そうして物理学の学士号を取得した後、メルボルン大学で哲学の博士課程へと進んだフォディは、2001年に意外な方向へ舵を切る。
幼なじみのダン・ウィットフォードに誘われ、彼のバンドであるCut Copyにベーシストとして参加したのだ。ウィットフォードはバンド結成前から確固たるファンベースを築いており、バンド結成後の初ライブには数千人のファンが押し寄せた。すでにして人気バンドだったCut Copyにおいて、フォディは「享楽的な他のメンバーに歯止めをかける常識人枠」という、いかにもベーシスト的な役回りを引き受けていた。
80年代的なシンセサウンドを土台にしつつ、クラウトロックやフレンチハウスなどを貪欲に取り込んだCut Copyは若者の心を見事につかむこととなる。それまでオーストラリアでアングラ寄りのジャンルとされてきたダンスミュージックをメインストリームへとひきあげ、一挙にスターダムを駆け上がっていった。
だが、バンドが成長していくにつれ、音楽活動に対するフォディの違和感は膨らんでいった。
他のメンバーは音楽を真剣に愛し、打ちこんでいる。ツアーや収録の合間にふと生じるヒマな時間すら、かれらは愉しんでいた。だが、フォディは時にすべてが無駄に感じられることさえあった。
「自分は真剣に音楽を愛せない。ここは居るべき場所ではない」
当時ブレイク真っ只中にあったFranz Ferdinandとの対バンアメリカツアーを控えたある日、フォディはバンドからの脱退を申し出る。Cut Copyはフォディ脱退後のセカンドアルバムで全豪チャート一位を獲得し、オーストラリアを代表するバンドになる。その未来を予見できないフォディではなかったが、しかし、ぼんやり居座りつづけて甘い汁だけ吸う生活には我慢ならなかったのだろう。
倫理分野の研究者が倫理的な人物であるとはかぎらない。しかし、たしかに彼は“信念のひと”だった。
こうして研究の道へと戻ったフォディだったが、バンドに在籍していたころの疑問はその後もくすぶりつづけた。音楽でも哲学でも、楽しくて有意義だと感じることはある。けれども、いつもどこかで馴染めなさが残る。自分が本当に好きなこととは? 自分の居場所とは?
応用哲学と公共倫理の分野で博士号を取得したのち、フォディは渡米してニューヨークへ居を移し、研究員としてプリンストン大学に籍を置くことになる。
依存と継続

フォディはメディアで「元・哲学者のゲーム開発者」という肩書でよく紹介される。ときおり、インタビューで「哲学者時代の経験がゲーム開発に役に立つか?」という質問をぶつけられるのだけれど、フォディは毎回冗談めかしてはぐらかす。
だが、フォディ作品は他のゲームとはあきらかに異なる視点・視座を持っている。それは彼自身のパーソナリティと切っても切り離せず、哲学者としての一面とももちろん地続きだ。
倫理研究者としてのフォディは、一貫して薬物と依存について考えつづけた。研究者時代に著されたある論文では、依存症における自律性(Autonomy)や自制心(Self-control)の捉え直しに焦点を当てている。
論文における主張を要約するとこうだ――依存症において患者が自律性を失っているかどうかは、「何」に依存しているかで見るべきではない。「どうやって」のほうが重視されるべきだ。
ヒトはほとんどすべての行為や物質に対して依存症になりうる。であるなら「薬物を欲するから非自律的=依存症」と断じるのではなく、依存症患者の自律性を認め、その摂取を本人の価値観に基づく行為だと認める。そうすることで社会的スティグマを軽減し、患者が自ら主体的に薬物使用のリスクと向き合える環境を整えることができるではないか、と。
自らを律すること。そのことばを念頭にフォディの作品群を眺めてみると、一貫したテーマのようなものを見出しうる。彼のゲームは、つねにある種の固定観念や物事への執着を問い直し、それらの見方に対して新しい角度をつける。そして、「何が」ではなく、「どうやって」という仕方に焦点が当てられる。
すなわち、行為に意志が賭けられているかどうか。それは、フォディのゲーム開発者としてのスタンスそのものでもある。
TIGSourceとその時代
ゲーム開発者としてのフォディのキャリアは、渡米直前の2007年に始まった。
幼少時から漠然とゲーム開発に憧れてはいた。十代のころにBasicをはじめとしていくつかのプログラミング言語に触れたものの、学業や音楽活動に追われ、具体的に実を結ぶことはなかった。
しかし、2005年に開設されたインディペンデント開発者向けサイト TIGSource(The Independent Games Source)との出会いがフォディの人生を変える。
TIGSource。このWEBサイトこそ、インディーゲーム史を語るうえで欠くべからざる重要な開発者コミュニティだ。
TIGSourceはもともと、2005年にスタートしたインディーゲーム評論・ニュース紹介ブログだった。当時いくつか類似のブログがあるなかで、設立者のジョーダン・マグナソンによる率直で舌鋒するどい書きっぷりはひときわの評判を呼んだ。
その熱心な読者の一人だったのが、『Spelunky』『Aquaria』『Eternal Daughter』などの代表作で知られることとなるデレク・ユウだ。当時、大学生ながらに気鋭のインディーゲーム開発者として知られていたユウは、マグナソンからインタビューを受けたのをきっかけにTIGSourceを購読しはじめた。そうして、インターネットにおけるインディーゲームコミュニティの広がりを知るとともに、コミュニティへまっすぐ向き合って開発者たちに刺激を与えるマグナソンの姿勢に感銘を受けた。
ユウは編集メンバーとしてブログを手伝おうかとすら考えるようになる。ところが、おりしもマグナソンは個人的な事情からTIGSourceを閉めるつもりでいた。それを知り、ユウは自分がTIGSourceの運営を引き継ぐことを申し出る。
マグナソンに代わって主宰の座に就いたユウは日々インディー関連のニュースを発信するかたわら、2007年にインディー開発者向けの掲示板フォーラムを新設した。TIGSourceフォーラム、通称“TIGSフォーラム”だ。これがやがて数千ものインディー開発者たちの集う一大コミュニティ、そして2000年代から2010年代にかけてのインディーゲーム・ムーブメントの中心のひとつとなっていく。
2000年代といえば、『Unity』など個人でも扱える本格的なゲームエンジンが出始めていたものの、まだまだ情報の乏しかった時代である。すぐさま、フォーラムはインディー開発者たちで活況を呈し、互いに議論やゲームのデモ、開発日誌(devlog)を公開しあうハブを築きあげていった。開発者たちは互いのゲームをプレイしあってフィードバックをやりとりしたり、ときには共同してひとつの作品を制作したりもした。また、作曲家やアーティストといったメンバーを募る場ともなった。
TIGSource出身で最大のヒット作といえば、なんといっても『Minecraft』だろう。開発者のNotch(マルクス・ペルソン)が2009年5月に『Minecraft』のアルファ版をリリースしたスレッドはなかば伝説となっている。Notchがインスピレーション元のひとつとなった『Infiniminer』を知ったのも、作曲を担当したC418と出会ったのも、なにより、『Minecraft』というタイトルを考えてもらったのもTIGSourceであったという。

ほかにも『Papers, Please』、『Spelunky』、『FEZ』、『Return of Obra Dinn』、『Rain World』、『Anodyne』、『Lonely Moutains: Downhill』、『Katana Zero』、『Momodora』、『Environmental Station Alpha』、『Manifold Garden』など、ここで育まれた名作・良作は枚挙にいとまがない。
とはいえ、インディーゲーム文化がTIGSourceフォーラム“のみ”で育まれたわけではないことは強調しておかねばならない。開発者同士・開発者とユーザー間・ユーザー同士の交流はブログ、Reddit、Tumblr、Youtube、その他SNSなどでも広範に形成されていた。また、ゲーム開発者向けのフォーラム機能を備えた情報サイトとしては、gamedev.netも90年代から存在している。
ネットのゲーム開発文化の重要WEBサイトとしては、ゲームジャムサイトLudum Dare(2002〜2028年終了予定)が存在するが、こちらはフォーラム時代を含めた過去の記録があまり残っていない。こうした記録の喪失は開発者界隈以外のネットのフォーラム/個人サイトのゲーム語りにもいえる。投稿者自身の手によって編集されていることが多いものの、一応まるまるログの残っているTIGSourceフォーラムは貴重な遺産なのだ。
話を戻そう。TIGSourceにはほかにも『Night in the Woods』のアレック・ホロウカ、『Hotline Miami』の“Cactus”ことヨナタン・ソダーストロム、『Super Meat Boy』や『The Binding of Isaac』のエドマンド・マクミラン、『Disco Elysium』でアートディレクターを務めたアレクサンダー・ロストフ、『Baba is You』のHempuliことアーヴィ・テイカリなどもフォーラム・コミュニティの常連として早い段階から旺盛に活動していた。
フォディはTIGSを通じてゲーム制作のチュートリアルを学ぶうちに「今ならゲーム制作に再チャレンジできそうだ」と考えた。「このFlashというツールでなら」と。




















