“壺おじ”を生んだ「ベネット・フォディ」とは何者か 個人開発インディーゲームの歴史を変えた重要人物の足跡を辿る

“壺おじ”の作者 Bennett Foddyとは何者か

 インディーゲームの金字塔として知られる、“壺おじ”こと『Getting Over it With Bennett Foddy』をご存知だろうか。数々のゲーム配信者、VTuberがプレイし、「ゲーム実況の登竜門」として評価を受ける、インディーゲーム屈指の名作だ。

 同作のタイトルには作者であるベネット・フォディ(Bennett Foddy)の名前が記されている。ゲーム実況を見るのが好きな人、VTuberを好きな人、あるいは『Steam』でゲームを遊んだことのある人なら、「なんとなく知っている」「聞いたことはある」であろう“壺おじ”だが、その作者の人となりについては、意外と知らない人が多いのではないだろうか。

 そこで今回、リアルサウンドテックではSF作家にして批評家、そしてインディーゲームの熱心なプレイヤーでもある千葉集による「ベネット・フォディを中心に見るインディーゲーム小史」を、全七回にわたってお届けする。大流行するインディーゲームの現在の起源と、重要な役割を果たしたフォディの足跡を知る手がかりとなれば幸いだ。

ベネット・フォディとは何者か

 私の意図は、一人の人間が生きた痕跡を集め、次いでこれをつなぎあわせることだが、その痕跡のいずれも、一つの運命としてのピナゴの存在を構築しようと思って作られたものではなく、運命などというものを持ち合わせたかもしれない個人としてのピナゴを示そうという意図で作られたわけでさえもない。要するに、最初はバラバラの断片からパズルを組み立てるということだ。

――アラン・コルバン、渡辺響子・訳『記録を残さなかった男の歴史 ある木靴職人の世界……1798-1876』藤原書店

 人間の話をしよう。ゲームは人が作り、人が遊ぶものだから。さいわい、ここにあなたたちがすでによく知る人物がいる。

Game Developers Conference - https://www.flickr.com/photos/officialgdc/40951101871/

 ベネット・フォディ(Bennett Foddy)。

 インターネットを一日平均三時間二十一分以上やっている“平均的現代人”ならば、一度は目にしたことがあるはずの名前だ。

 なに? 知らない? 見たことがない? なら、こういえば思い出すだろうか。

 下半身を重たい「釜」あるいは「壺」につっこんだ男が、大型のクライミングハンマーを振りまわしながら、岩壁を登って頂上を目指す、あのアクションゲーム。

 世界じゅうのプレイヤーたちを“阿鼻叫喚”へと追いやった、あの超高難度のゲーム。“壺おじ”の愛称で親しまれ、HIKAKINからBTSのジンまで、あなたがゲーム実況で確実に一度は見たことのある、あのゲーム。『Getting Over it With Bennett Foddy』に、その名前は刻まれている。

『Getting Over it With Bennett Foddy』

 フォディは『Getting Over It』の開発者であり、作中のナレーションも担当している。タイトルを文字通りに受け取れば、『Getting Over It』はこのフォディと“乗り越えていく”ゲームということになる。

 いやしかし、とあなたはおもうだろう。そもそも、このベネット・フォディとは何者なのか? なぜ、このベネット・フォディと「乗り越えて」いかねばならないのか。

 作品同様、ベネット・フォディのキャリアはつかみどころがない。薬物に関する倫理を研究する哲学者、ゲームデザインを教える大学教員、人気シンセポップ・バンドのベース担当、そして、ゲーム開発者……さまざまな顔を持っている。

 ソロ開発者として『QWOP』や『Getting Over It』などをヒットさせる一方で、『VVVVVV』や『APE OUT』や『Universal Paperclips』といったゲーム史に残る(べき、と筆者が考えている)タイトルにも、部分的に関わっている。

 フォディは最初期からインディーゲーム・シーンに関わってきた長老のひとりであり、一貫してメインストリームから距離を取ってきたアウトサイダーでもある。ゲーム実況配信によって自作タイトルが“バズる”という現象を、もっとも早い時期に体験した開発者のひとりである。

 そして、なにより、サディスティックなまでに高難度のゲームを作ることで有名だ。

 かくも、ベネット・フォディという存在を一言で言い表すのはむずかしい。だが、こうは言えるかもしれない。

 彼の足跡は、そのまま現代インディーゲームの歴史でもある、と。インディーのゲームすべてがわかる、とまではいわない。が、ベネット・フォディの半生を追えば、2000年代後半からの「極小規模開発」のインディーゲーム界隈がわかる。それは現在、世に溢れるほとんどのインディーゲームの起点だ。語るに値するにもかかわらず、閑却されてきた過去だ。

 これから語られる事柄の半分ほどは、直接的にベネット・フォディのことを名指さない。語られる対象はときに他のインディーゲーム開発者となるかもしれない。それはデレク・ユウであるだろう。あるいは、テリー・キャヴァナーであり、フランク・ランツであり、ゲイブ・クッジーロであるだろう。

 かれらとフォディとの交流、その足跡を辿っていくと、TIGSourceとニューヨーク大学ティッシュ芸術校〈ゲームセンター〉というふたつの開発コミュニティが浮かびあがってくる。

 フォディはある流れに身をおいてきた。特定の場に属するひとびとがうねりとなって作りあげた、現代インディーゲームの潮流だ。その歴史の流れを見定めたときに、ようやく捉えられる。ベネット・フォディという作家の輪郭を。人間の横顔を。

ベネット・フォディの少年時代と原体験

 ベネット・フォディは1978年にオーストラリアで生まれた。

 ビデオゲーム史的にいうのなら、社会的にゲームの存在感が急速に増してきた時期だ。この年リリースされた『スペース・インベーダー』は日本で大ブームを巻き起こし、北米ではほとんど独力でアーケード市場を三倍の規模に引き上げた。また、前年に発売された『Atari 2600』(発売当時の名称はVideo Computer System、通称:Atari VCS)は当初の不調をはねのけ、80年代には世界で初めて1,000万台以上を売る家庭用ゲーム機となっていく。

 しかし、フォディの人生におけるゲームとのファーストコンタクトは『スペース・インベーダー』でも『Atari 2600』でもなかった。もちろん、任天堂の『ファミリーコンピュータ(NES)』でもない。五歳での彼の“初恋”は英国シンクレア社の『ZX Spectrum』――いわゆる、ホームコンピュータだった。

 フォディ自身の証言によれば、当時のオーストラリアでは、保護貿易政策やTVの映像信号規格などの影響から「家庭用ゲーム機は割高で手を出しにくい代物」と見られていたそうだ。たとえば、スーパーファミコン(SNES)はアメリカでは199米ドルだったが、当時のオーストラリアドルだと米ドル換算にして230ドルほどで売られていたらしい。もちろん、ソフトも割高だった。そのため、オーストラリアでは金持ちの子どもしかスーパーファミコンを持っていなかったという。

 そんななかで、オーストラリア国内における人気のゲーミングデバイスとしてシェアを握ったのが、8ビット機の『ZX Spectrum』だった。低価格路線のホームコンピュータとしてまず欧州を席巻し、その人気が英連邦王国の一員であるオーストラリアにも波及した。そのためか、オーストラリアの初期のゲーム受容はヨーロッパ風な側面が見受けられる。

 オーストラリアは、もっとも早い時期に国産ゲーム開発をはじめた国のひとつでもある。1980年にアルフレッド・ミルグラムとナオミ・べセンの夫婦によって設立された「Beam Software」は、トールキンの小説を元に『The Hobbit』を1982年にホームコンピュータ向けに発売し、50万本以上を売り上げた。初のオーストラリア産ヒット作品だ。ミルグラム曰く、一時のBeamには「オーストラリア全土のほぼすべてのゲーム開発者が集まってきた」そう。

 Beamはその後、売却やリブランドを繰り返した末に消滅したものの、その過程でゲーム開発の文化をオーストラリアに根付かせた。そんな連綿たる歴史が、『Hollow Knight』をはじめとした今日のオーストラリア産インディーゲームの隆盛の礎ともなっている。

 さておき、当時のゲームソフトは大変高価だった。オーストラリアのゲームキッズたちは、フロッピーで海賊版をコピーしてやりくりしていたらしい。

Sinclair社のZX Spectrum/Photo by Bill Bertram

 幼いフォディは貪欲にゲームを求めた。とりわけ原体験として強く刻まれることになったのは、『Jet Set Willy』(1984)だ。英国の若き天才マシュー・スミスの手によって生み出され、『空飛ぶモンティ・パイソン』を引用するなど、当時のアナーキーでシュールな英国産ゲームを象徴するような作品だった。

 同時に、本作は現在の基準からすれば極端な高難度でも知られる。主人公であるウィリーは16の残機を携えて、60画面ほどからなる(当時としては)広大なマップを冒険し、ちりばめられた80個ほどのアイテムを回収していく。

 このウィリーが、とにかく死にやすい。ちょっとした落下でも死ぬ、理不尽なマップ構造で死ぬ、画面切り替わり時の不意打ちで死ぬ、ハメ状態みたいになって死にまくるなど、ものすごい勢いで残機が溶けていくのだ。

 死ねば、その画面の端からリスタートとなる。16機を使い果たしたらイチからやりなおし。ふたたび、厳しく広大な世界へトボトボ挑んでいかねばならない。セーブやチェックポイントなどといった甘っちょろい救済措置は、存在しなかった。

Jet Set Willy

 当然、ベネット少年には、途方もなくむずかしいゲームだった。それでも、彼は挑みつづけた。

 アーケードゲームなら投入するコインが尽きた時点で諦められる。だが、「家庭用」のコンピュータ上では、時間と気力が許すかぎり、何度でもやりなおせた。極端な死に戻りは世代的な体験として植え付けられた美学だった、とのちのフォディは語っている。

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