「アカデミックにVTuberを鑑賞する」とはどういうことか? 『VTuber学』著者が考える、バーチャルYouTuberの「鑑賞の態度」

 『VTuberの哲学』などを執筆した山野弘樹氏へのインタビュー。前半では「バーチャルYouTuber」と「バーチャルライバー」の活動形態やスタンスの違いなどについて話を聞いてきた。後編ではそれを需要する“態度”についての話へ飛躍。山野氏ならではのアカデミックな鑑賞態度などについて、じっくりと語ってもらった。(浅田カズラ)

良い面も悪い面も見据える――アカデミックなVTuber視聴態度とは

――近年は、アカデミックな文脈を持つVTuberも増えており、ファンの数も増えているように感じます。こうしたVTuberのファンのなかには、アカデミックな視聴態度をとる人も多いと思いますが、これは山野さんが触れた情動に基づく視聴態度とは相反するものだと思います。そこでお聞きしたいのですが、VTuber研究者であり、かつファンでもある山野さんは、普段どのような視聴態度でVTuberと対面していますか?

 この手の質問は以前からよく受けているのですが、まず「VTuberのファンである」という言葉で、多くの人がどのような状態をイメージしているのか……というところから確認したいというのが正直な思いです。

 「VTuberのファン」とは何でしょうか? もしそれが、「VTuberという存在を無条件的に肯定する信者」、「VTuberなら何でも好きな人」、「VTuber全体の熱烈な支持者」みたいな意味であれば、私は「VTuberのファン」ではありません。

 他方で、もし「VTuberのファン」という言葉が「VTuberを日常的に視聴しているリスナー」という意味であれば、私は「VTuberのファン」です。

 要は、「ファン」という言葉自体がすごく曖昧なのです。これは「アンチ」という言葉にも当てはまります。「アンチとは何か?」という問いと同じくらいに、本来は「ファン」という言葉も慎重に問われるべきものです。

 例えば、漫画研究者の中には、「日常的に漫画を読んでいる」、「特定の作品を好ましく思っている」という方がいるでしょう。また、文学研究者の中にも、「日常的に文学作品に親しんでいる」、「特定の作家の文体を美しく感じている」という方がいるでしょう。

 VTuber研究も、こうした状況と特に変わりません。VTuber文化研究者の中にも、「日常的にVTuberのコンテンツを視聴している」、「ある特定のタレントに魅力を感じたりすることがある(あるいは感じないことがある)」という方はいます。私の周りの研究者たちもそうですし、私自身もそうです。ただ、全員に共通していることとして、みなさん「研究対象となるコンテンツ群」を普段からよく観て、その特徴を俯瞰的・構造的に分析されています。

 多数のコンテンツに触れていく中で、自分自身の美的感性に「刺さる」こともあるし、「刺さらない」こともあるでしょう。それは人間として普通だし、当然のことです。

 ただ、それは「鑑賞者」としてのレイヤーの話です。「研究者」としては、「自分が好きなコンテンツだけ取り上げる」とか、「自分が嫌いだから、そのコンテンツの悪いところだけを指摘する」とか、そういう“好み(個人的な趣味嗜好)”をベースにした議論を組み立てることは許されません。

 「鑑賞者」として、特定の作品を好ましく思い、他の作品に苦手意識を覚えることはあるでしょう。ですが、「研究者」としては、そういう個人の“好み”は脇に置いて、「ある作品の構造(性質)」や、「そうした作品が置かれている状況全体」を俯瞰的に捉える必要があります。

 そのために必要なのは、当該ジャンルの作品を(可能な限り)網羅的にリサーチしていくという姿勢です。アニメスタディーズやゲームスタディーズなどにおける「事例の収集の膨大さ」にはいつも驚かされますが、VTuberスタディーズもそうあって然るべきです。

 VTuber文化においては、とにかく膨大な事例が蓄積されています。なぜこれだけコンテンツの数が膨大になっているかと言えば、それは「ライブ配信」を中心とした活動形態が主流になっているからです。毎日何時間も「ゲーム配信」をするVTuberもいますし、毎日二、三時間「歌枠」をするVTuberもいます。また、毎朝「朝活配信」をするVTuberもいます。しかもそれらはYouTubeだけでなく、Twitchやツイキャス、ニコニコ動画やTikTokなどのプラットフォームにまたがっています。

 こうした膨大な事例は、遠くから見ていると、まるで「飛行機の窓から見下ろしたときの街の景色」のようです。そこでは細部の情報はほとんど失われてしまっていて、細かな話がほとんど分かりません。大まかに「ここは〇〇という街の上空らしい」という情報が分かるくらいでしょうか。

 ですが、実際に飛行機がその街に降り立ち、その街をじっくり練り歩いてみると、飛行機の窓から見ていたときとは全く違う景色が目に飛び込んできます。

 例えば「東京」を例に考えてみましょう。みなさんは、「東京」という言葉から、どのような「街の景色」をイメージするでしょうか?

 ある人は、「浅草」のような歴史的な街並みを想像するかもしれません。ただ、「渋谷のスクランブル交差点」や、「東京駅周辺」や、「飲み屋街が集まる下町」を想像する人だっているかもしれません。それらはどれも「東京」という街の一部ですが、実際にそこを訪れて見えるものは大きく異なります。そこをよく訪れる人も、そこで育まれているカルチャーも、どれも全く異なるものでしょう。

 「東京」だけでもこれです。これが「日本」だったらどうなるでしょうか? 同じ「日本」の一部だとしても、それぞれの都道府県は、私たちに全然違う「景色」や「カルチャー」を見せてくれることでしょう。

 「VTuber文化をリサーチする」とは、このように「それぞれの街を実際に訪れ、その街に固有の歴史と独自な文化を調べていく」ということを意味します。比喩表現を解くならば、「実際に数多くのVTuberの配信コンテンツを視聴し、慎重に比較・検討を行っていく」ということです。

 こうした継続的なリサーチを行わないVTuber論というものは、「実際にフランスに行ったことはないけど、フランスという国家と歴史について論じる」ようなものです。「数回パリに旅行した」とか、「インターネットでフランスについて書かれた記事をたくさん読んだ」とかでも足りないですよね。「当該のカルチャーについて研究するためには、まずそのコンテンツに多数触れなければならない」というのは、こういう意味です。

 もちろん、一人で、何のツールもなく「東京」という街を歩き回ることはできません。だからこそ、「共に研究をするためのチームメンバー」が必要です。これは「研究者であるか否か」、「アカデミズムの人間であるか否か」などは全く関係ありません。必要なのは、「VTuber文化」の現代的および構造的な特徴を解き明かしたいという熱意があるかどうかです。こうした同じ志を持つ仲間たちと一緒に「事例」を持ち寄り、共同で「今月はこれだけ大きい出来事があった」などとディスカッションをしていくことで、やっと少しずつ「街」の景色の解像度が上がっていきます。

 もちろん、ミクロな視点だけではなく、マクロな視点も必要です。例えば「東京」という街の特徴について調べるためには、「北京やロンドンと比較したらどうか」という〈横軸〉の視点や、「江戸時代と令和とでどのように異なるのか」という〈縦軸〉の視点を持つことも必要になります。こうした視点がなければ、「東京について考察した」と言うことはできないでしょう。

 要するに、解像度を上げるためのミクロな視点と、全体的な特徴や構造を俯瞰的に捉えるためのマクロな視点の両方が必要であるということです。もし「VTuber文化」を「一つの街」にたとえるなら、VTuber研究とは、共同研究者と一緒にその街のいろんなエリアを訪れたり、その街の特徴について〈縦軸〉および〈横軸〉の視点から議論したりすることを通して、街全体の構造的特徴やその社会的位置づけを明らかにする作業であると言えるでしょう。

 ここまでの話を踏まえて、「アカデミックな態度でVTuberを観るとはどういうことか?」という問いにお答えしたいと思います。それは、「前述したような〈縦軸〉および〈横軸〉の視点を持ちながら継続的にVTuber文化のコンテンツをリサーチする」ということです。

 〈縦軸〉の視点を持つためには、2016年12月から現在に至るまでのVTuber文化の出来事を時系列的にまとめることが必須ですし、さらにはVTuber文化のルーツとなる様々な文化(漫画、アニメ、ビデオゲーム、ストリーミング、演劇等)の歴史も調べなければなりません。そのためには、マンガスタディーズやアニメスタディーズ、さらにはゲームスタディーズなどの文献・学術書を読む必要があるでしょう。

 また、〈横軸〉の視点を持つためには、VTuber文化を隣接する文化と比較・検討する作業が必要です。例えば、すでに今日のVTuber文化においては「実写配信」が極めてありふれたものになっていますが、こうした「実写配信」は、「2.5次元文化」の延長線上にあるようにも思えます(実際、すでに「超美麗」という言葉に加えて「2.5次元VTuber」という言葉もあります)。もちろん、「2.5次元文化」も「アニメ文化」、「演劇文化」、「アイドル文化」などが複雑に絡み合った上で成立している文化です。こうした意味で、VTuber研究においては、例えば「VTuber文化/2.5次元文化/アニメ文化/演劇文化/アイドル文化……」という形で、様々な文化的実践を横断的に検討していくことが必要なのです。

 私たちの目の前には、一つのコンテンツがあります。その画面上に映るVTuberは、あなたが普段好ましく思っているVTuberであったり、あるいは逆に苦手意識を持っているVTuberであったりするかもしれません。人間である以上、そうした感性的なマッチングの問題はどうしても生じてしまいます。ですが、重要なのはそこではありません。

 研究において大切なのは、そうした目の前のコンテンツの構造的特徴や歴史的文脈を子細に検討しつつ、それを〈縦軸〉・〈横軸〉の膨大な流れの中に位置付けることを通して、精緻にVTuber文化の在り様を考察し、研究者/有識者たちと共同で議論を蓄積していくことです。そうした姿勢および実践こそが、単なる「鑑賞者」を「研究者」へと変えるのです。

 こうした実践の中で必須になるのが、先行研究をしっかり読み、その知見を援用しながらコンテンツを分析・解釈するという実践です。すでにVTuberスタディーズの土台は出来ています。まず、第一に『VTuber学』(岩波書店、2024年)です。手前味噌で恐縮ですが、拙著『VTuberの哲学』(春秋社、2024年)も理論的な分析をする際には参考になるでしょう。他にも、独立研究者の方々が発表されている研究冊子(例えばmyrmecoleonさんの『VTuber統計レポート2024』や諸星めぐるさんが編集された『Hukyu』、さらに早稲田大学VTuber研究会の『早稲田V学』など)も大いに参考になります。大切なのは、可能な限り事例のリサーチをして、慎重な議論を展開している書籍を熟読すること(そして自分でもノートをとり、それぞれの議論を比較・検討すること)です。

 もちろん、VTuberスタディーズに関連する本だけではありません。『ライトノベル・スタディーズ』(青弓社、2013年)、『マンガ・スタディーズ』(人文書院、2020年)、『メディア・コンテンツ・スタディーズ』(ナカニシヤ出版、2020年)、『アイドル・スタディーズ』(明石書店、2022年)、『ゲームスタディーズ』(フィルムアート社、2025年)など、直近の学術書だけでこれだけのラインナップが揃っています。それだけではなく、『バーチャルリアリティ学』(コロナ社、2010年)、『フィクションの哲学』(勁草書房、2017年)、『情動、メディア、政治』(春秋社、2024年)などの隣接分野の学術書も大いに参考になるでしょう。このように、視野を広げていけば、「VTuber研究には参考文献がほとんど無い」どころではありません。むしろ、一人ではとうてい読み切れないくらい豊饒な先行研究の蓄積があるのです。

 こうした「先行研究との接続」を(具体的な文献を挙げつつ)丁寧に明示できている論考こそが「アカデミックな価値」を有します。もちろん、とりあえず参考文献を列挙して誤魔化しているような文章はすぐにバレます。必然性のない参考文献の参照は、むしろ不誠実な態度であるとすら言えるでしょう。そういう姿勢ではなく、誠実に、一歩ずつ議論を組み立てていくことを志向し、そうした視座でVTuberコンテンツを視聴する姿勢こそが、「アカデミックにVTuberを観る」という態度に他なりません。

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