『DEATH STRANDING 2: ON THE BEACH』先行レビュー 2度目の“繋ぐための旅”が描いた「なわ」の功罪
6月26日に発売されるPlayStation 5専用タイトル『DEATH STRANDING 2: THE BEACH』(以下、『DS2』)では、前作でアメリカ全土を繋いだ主人公のサムが、再び「繋ぐための旅」に出る物語が描かれる。サムが紡ぐ線は、はじめはアメリカからメキシコへと向かい、やがてオーストラリア全土へと続いていく。
いま、筆者は数十時間に及ぶ『DS2』の本編を終えて、このレビューの執筆作業を進めているのだが、この紛うことなき大作を前にして、どのように書き進めていくべきか途方に暮れている。個人的には、少なくともゲーム・オブ・ザ・イヤー候補の一つとして語られるであろう傑作であるように感じているし、もし実際に受賞したとしても異論はない。一方で、その理由を書こうとすると、どう頑張っても物語の核心に触れてしまうし、それを書いてしまえば本作のプレイ体験が台無しになる。
本稿では、極力ネタバレを回避しながら、「ゲームのコアとなるメカニクス」と、それを支える「ストーリーの主なプロットラインの軸」について触れていくことで、その魅力をまとめていく。配慮はしているとはいえ、それでもまっさらな状態でプレイすることが本来は望ましいし、少なくとも前作が気に入っているのであれば、本作も気に入る可能性が高いことは保証する。もし、少しでも情報を入れたくないのであれば、いったん、引き返してみても良いかもしれない。
では、前置きはこのくらいにして、本編に入っていこう。
※本記事の執筆にあたり、SIEから商品の提供を受けています。
いまなお唯一無二の魅力を放つ、「“移動する”という遊び」と「ゆるやかなオンラインプレイ」
前提として、『DS2』のゲームプレイの根幹に関しては、前作から大きな変化があるわけではない。「DEATH STRANDING」の核となる「移動そのものがゲームの本質」という構造は、本作においてもしっかりと受け継がれており、プレイ時間の多くは「ある場所からある場所へと荷物を届ける」という移動時間に費やされることになる。
道中には、大きな川が流れていることもあれば、歩ける場所を見つけることすら困難なくらいに足場の悪い地形もあり、見つけ次第こちらに襲いかかってくる物騒な連中もいれば、「BT」と呼ばれる幽霊のような存在に飲み込まれそうになることもある。運ぶ荷物に関しても、「これを一人で運ぶの?」と聞き返したくなるくらいに、その数や量に圧倒される場合もあれば、たとえ少量でも、衝撃に弱かったり、濡らしてはいけなかったりとさまざまな状況が待っていたりする。
「移動ルート」と「荷物」という二つの困難を前に、ルートシミュレーターでどのように踏破するかを考え、機材(梯子、ロープ、便利な設備の建設道具など)や車両などを準備し、臨機応変に現地の状況に対応しながら、必死で荷物を目的地に届けるという体験は、前作から約6年が経った現在でも唯一無二であり、独特な魅力を持っている。まだ整備されていない険しい道のりを一歩ずつ踏みしめ、「準備が足りていなかったかもしれない」という不安に少しずつ飲み込まれ、それでもなんとか進み続け、やがて視界の奥に目的地が見えた瞬間の感動は、それだけで泣きそうになってしまうくらいに格別だ(前作同様に、「ここだ!」というタイミングで劇中歌が流れるのも、気分をさらに盛り上げてくれる)。
そして、もう一つの核である「他のプレイヤーが残したものや軌跡がゲームに反映される、緩やかなオンラインプレイ」についても、やはり本作における大きな軸となっている。
本稿はリリース前のレビュービルドのプレイ記録を元に執筆しているが、リリース後よりも圧倒的にプレイヤー人数が限られていたであろう当時ですら、他のプレイヤーが残してくれた看板や道具、車両に助けられた場面は数え切れない(筆者が残したものが役立っていることも願いたい)。前作同様に、本作でも基本的には「初回訪問時はオフラインで自力で頑張り、到着後にオンライン解禁」という流れでゲーム全体が進んでいくのだが、最初に来た時は何十分も費やしたルートが、二度目に通るときには数分で踏破できてしまうという「他者の存在によってゲームプレイ全体が大きく変容する体験」は、何度経験しても新鮮で、サムさながらに「もっと繋ぎたい!」というモチベーションへと繋がっていく。
この二つの核は、前作における(安部公房「なわ」を引用した)「棒のゲーム」に対する、「なわのゲーム」としての「DEATH STRANDING」を象徴しており、その魅力は続編である本作においてもしっかりと貫かれている。また、ロケーションが変わったことによって、前作よりもバリエーション豊かな景色や地形を見ることができるのは、本作の大きな魅力だ。
「じゃあ、前作と何も変わらないのか?」と聞かれると、その答えはイエスでありノーでもある。まず、移動周りに関しては、前作からある程度のブラッシュアップ(たとえば、「ジップライン」の接続ラインをある程度曲げられるようになった)や、新アイテム(前作のディレクターズ・カット版で登場した「荷物カタパルト」など)の追加があるとはいえ、大きくは変わっていない。梯子とロープは相変わらず必須アイテムで、たくさんの荷物を運ぶためのフローター(浮遊しながら追従してくれる台座)はかけがえのない相棒だ。「国道」に続く、新たな移動ルートの「モノレール」に関しても、稼働させるために大量の素材を必要とする点は変わっていないため、むしろ新たなやりこみ要素が増えたと捉える方が正しいだろう。オンライン要素についても、基本的には前作と同様である。
とはいえ、「変わらない」というよりは、「余計なことはしていない」と表現する方が適切だろう。そもそもこれらの要素は前作の時点でほぼ完成しており、これ以上便利にしたり、存在感を出したりしてしまうと、ゲームとしての面白さが犠牲になってしまう可能性が高い。ただし、これは前作の時点でゲーム自体を「面白い」と感じた筆者としての意見であり、前作を「退屈」と感じた人にとっては、そのイメージが好転する可能性は低いかもしれない。
だが、一方で、前作の「禅」のようでもあった、大自然の中を黙々と荷物を運び続ける感覚に心から魅了されていたという人にとって、本作はその期待を大きく裏切る可能性もある。その理由を一言でまとめるのであれば、前作が「なわ」に重点を置いていたのに対して、『DS2』では、そのバランスが明らかに「棒」の方へと傾いた内容となっているからである。
「なわ」の功罪とは何か。前作の行動に対する「結果」と対峙した続編
前述のとおり、いわゆる「DEATH STRANDINGらしい」ゲームプレイの根幹については、『DS2』においても大きな変化はない。ただし、明らかに大きな変化が生まれている箇所があり、それが本作の戦闘パートである。
前作においても、ミュール(人型の敵)やBT、さらにはモンスターのような大型BTに、クリフォード・アンガーという重要人物と対峙するセクションなど、武器を持って戦ったり、ステルスで状況を切り抜けるパートが用意されていたが、『DS2』ではこの部分が明らかにボリュームアップしており、格段に存在感を増している。
詳細な言及は避けるが、人型の脅威に関しても、大型BTのような脅威に関しても、登場の頻度や相手側の殺意が前作よりも増えており、「ネクローシス(死体が発生してから48時間後にBT化し、巨大な爆発を起こす現象)が怖くないのか!?」と思うほどの危機的な状況に遭遇する場面が少なくない。
こうした事態に対処するために、サム側の戦力も大きく増強されている。序盤から使える例としては、前作にもあった「簡易観測塔」に「敵の位置をマーキングし、拠点にいる人数をカウントする」という機能が付いたことで、ステルス戦闘のやりやすさが格段に増していることが挙げられるだろう。
実際、本作における敵拠点での戦闘は率直に言って「楽しい」ものであり、観測塔で拠点の全体を把握し、敵の位置をマーキングし、攻略ルートを策定して、さまざまな武器や道具、あるいは地形を活用しながらステルスで敵を処理していくのは、たしかな手応えと充足感に満ちた体験である。実のところ、序盤からある程度武器を使えるため、ある程度は正面からのゴリ押しも通用するのだが、やはりここはステルスをお勧めしたい。レベルデザインや敵の配置、使えるメカニクスに、敵から発見された際の演出など、隅々まで作り込まれており、(さすがに『METAL GEAR SOLID V: THE PHANTOM PAIN』ほどの自由度はないが)「メタルギアが恋しい」というプレイヤーも、きっと楽しむことができるはずだ。
一方で、物語を通してオーストラリア全体が繋がっていくにつれて、その脅威はさらに大きなものへと膨れ上がっていく。そうした状況は、オーストラリアに住む人々や、前作に引き続きメインキャストの一人を務めるフラジャイルを中心としたチームに対しても影響を及ぼし、「オーストラリアを繋ぐ」という「なわ」的な旅が進むごとに、「棒」的な戦力がどんどん増強されていく。しかも、これは「繋がった」ことで情報を共有し、大きなリソースを扱うことができたからこそ実現できたものであり、「なわ」が大きくなるにつれて、呼応するように「棒」も大きくなっていくのである。
さらに、そんな「棒」としての側面を象徴するのが、『DS2』においてもメインヴィランとして、サムたちの前に立ちはだかるヒッグスだ。前作での死闘を経て、世界を滅亡せんとするテロリストとしての活動に終止符を打たれたかのように思えたヒッグスだったが、トレーラーでも明らかになっているように、彼は再び戻ってきたのである。一度葬られたことによって、ヒッグスの怒りは完全にリミッターを突破しており、前作を遥かに凌ぐ悪意をもって、サムやフラジャイルを執拗に攻撃する。彼が装備するエレキギターを模した印象的なデバイスは、本作における象徴的な存在となっており、ド派手な音色を鳴らしながら次々と攻撃を繰り出す様子は、まるで「なわ」を掲げ、「棒」を否定しようとするサムたちを痛みつける行為そのものを楽しんでいるようにすら感じられる。
帰還したヒッグスという存在が、「「なわ」によって生まれた「棒」」を象徴しているように、『DS2』は前作の大目的となっていた「繋ぐ」という行為そのものに、大きな疑問を投げかけており、それ自体が本作のストーリーの根幹となっている。たとえば、前作ではアメリカの名のもとにアメリカ合衆国を繋いでいたが、『DS2』で繋ぐ場所となるのはメキシコとオーストラリアであり、その主要メンバーは、(新メンバーも増えているとはいえ)大きくは変わっていない。
最序盤の時点でサムが疑問を投げかけるように、この構図は明らかに植民地支配を想起させる。依頼主は、「国ではなく、民間企業によって動かしているから問題ない」という回答を示すが、現代のテックジャイアントの姿を見れば分かるように、私たちは、それが結局のところは植民地支配に近いのだということをよく知っている。この、「誰が「なわ」を管理するのか?」という問いは、「棒」との対比とはまた異なる形で、ストーリーを動かす大きな原動力となっており、コントローラーから手が離せなくなっていく。
ここまで、大きな「なわ」について触れてきたが、小さな「なわ」についても忘れてはならない。それは、前作のクライマックスで「ルー」という赤ちゃんを救出し、一緒に生きていくことを決めた、父親としてのサムの物語である。救出の場面こそ感動的ではあったものの、冷静になって考えてみると、サムを含む私たちは、ルーのことをほとんど知らない。
どういう存在なのか、本当の親は誰なのか、何も分かっていないにも関わらず、「生かしてあげたい」という想いに突き動かされた結果として、サムとルーは親子になったのだ。
この構図に対しても、『DS2』は容赦なく疑問を投げかけていく。物語の最序盤で起きた「とある出来事」をきっかけにして、サムの父親としてのアイデンティティに大きな揺らぎが生まれ、それは彼が再び「繋ぐための旅」に出るきっかけとなる。その旅路は、サムの「父親としてのあり方」を見つめ直す旅でもあり、道中では、さまざまな人物の協力を得ることによって、ルーの過去が少しずつ明らかになっていく。これに関しては、何をどう書いてもネタバレになってしまうため、「とにかく見てくれ」としか言いようがない。だが、壮大な物語が描かれていく本作において、サムの物語もまた、極めて重要な存在であり、同じくらいの強烈な求心力を持っているということは保証しておこう。
リミッターを解除した、壮絶な光景を目撃せよ
ここまで、3つの物語を構成する要素についてまとめてきたが、そのすべてが、前作におけるサムたちの行動に対する「結果」であり、高い評価を獲得した『DEATH STRANDING』という作品から数年を経て、「語られなければならなかった」物語である。それは、一言でまとめれば「なわの功罪」であり、本作のキャッチコピーである「我々は繋ぐべきだったのか?」という疑問に集約される。この問いを描くにあたって、本作は完全にリミッターを外しており、だからこそ(メタ的な)「なわ」としてのゲーム自体の佇まいについても、物語が進むにつれて完膚なきまでに破壊してみせる。それは、前作に共感した人の期待を裏切る結果になるかもしれないが、そこまでして描かなければならなかったものがあるということなのだろう。
先ほど戦闘の魅力について書いたように、前作における「なわ」的な魅力は、「棒」の比重が大きくなった本作において相対的に減少している。そして、正直な話をすると、個人的には本作の方が「ゲーム的に面白い」と感じている自分がいる。そのことについてどこか「これでいいのかな?」とモヤモヤするところもあったのだが、『DS2』はこの点についても自覚的であり、特に後半ではプレイヤー自身に対してもそうした疑問が投げかけられているように感じられる部分もある。それは、第四の壁を超えてゲームそのものを侵食してきた、過去の小島秀夫作品にも通ずる体験だ。ちなみに、前作では(特に後半において)ストーリーテリングが過剰になった結果、理解が追いつかなかったり、「カットシーンが長すぎる」と感じられる場面があったが、本作では辞書的な役割の「コーパス」が用意されていたり、ゲーム中における対話の比重が増していたり、全体的に理解しやすくなっているのも印象的である。
リミッターを解除するにあたって、今作では小島秀夫自身も明らかに自身の創作面において振り切っている。前作でも過去作品に対するオマージュやファンサービス、あるいは自身が愛するポップカルチャーへのリスペクトを感じられる場面があったが、いまとなってはそれがおとなしく思えるくらいに『DS2』は過剰だ。
すでに公開されているトレーラーにおいても「既視感のあるバンダナ」を着用したニールや、「サイボーグ忍者」を彷彿とさせるロボットが話題となっているが、本編ではさらなる過去作品へのオマージュが次々と投下されていく。「メタルギアソリッド」シリーズ(特に『METAL GEAR SOLID 4 GUNS OF THE PATRIOTS』)で印象的だったキレのあるアクションシーンもてんこ盛りだ。もはや、「やりたいことは全部やる」と言わんばかりの情報量であり、そうした「クリエイターとしての濃度」はエンディングへと向かうにつれて、いよいよピークへと到達する。その光景は過去の小島秀夫作品と比較しても、「凄まじい」という他ないものだ。
ここで強調しておきたいのは、「棒」の比重が大きくなったり、クリエイターとしての濃度が濃くなっているというのが、「ただやりたいだけ」ではなく、あくまで物語に導かれた末に生まれたものであるように感じられるということである。踏み込んだ言い方をすると、筆者個人としては、『DS2』という作品が、「これが最後になるかもしれない」という小島秀夫自身の想いを投影したものであるように思えてならない。もちろん、これから先も『OD』や『PHYSINT』といった作品が控えているが、本作が一つの区切りであるということは、(自身が制作期間中に重い病に倒れたことも相まって)明確だろう。
これまでの作品がその当時の世情や、あるいはそこから生まれる未来への展望を投影していたように、『DS2』もまた、プレイしながら現代や未来を想起せざるを得ない作品に仕上がっているということは、ここまで書いてきたように間違いない。そうした現実的/政治的な側面に対して、本作は(前作以上に)「生」と「死」が大きく絡んでいく。これは、「ビーチ」という「死者の世界と生者の世界を繋ぐ存在」が物語の軸となっている「DEATH STRANDING」という世界だからこそ描けるものであり、その点においても、本作は限界へと挑んでいる。
混沌とする現代において、「死」という存在を前にしながら、生と死がつながる「DEATH STRANDING」という舞台で、小島秀夫は何を描いたのだろうか? ぜひ、その目で見届けてほしい。