映画とゲームの“理想的な架け橋”とは 小島秀夫×A24が生み出す映画『デススト』への期待と確信
「映画はビデオゲームの物語を語るのに適した媒体ではない」
2021年、そう語った人物がいた。ゲーム原作ドラマ『The Last of Us』のクリエイター、クレイグ・メイジンだ。彼は、ビデオゲームのインタラクティブ性とそれに関連した物語のデザインが映画への脚色を阻むと述べた。2年後、彼のドラマはあらゆる賞を総ナメにし、「ゲーム映像化史上最高の作品」と激賞された。
『The Last of Us』の成功はメイジンの意見を変えただろうか? どうもそうではなさそうだ。彼は2024年公開予定のゲーム原作映画『ボーダーランズ』から途中で降りている。
ビデオゲーム原作映画は、長らく映画界から軽んじられてきた。
1993年の『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』が「最悪」と断じられて以来、ゲーム原作映画は観客を楽しませ、映画会社に大金をもたらすものでありつつも、アメリカの映画批評家たちからは低評価をくだされつづけた。「ビデオゲームはアートになれない」と主張する長文を書いた大御所評論家もいたほどだ。
そうした傾向は近年も変わらない。『名探偵ピカチュウ』(2019)や『ソニック・ザ・ムービー』(2020)など何作かは批評家からも比較的好評を博したものの、それも「ゲーム原作にしてはマシ」程度の好意にすぎない。アカデミー賞を含め、映画人の選ぶ賞レースにおいても話題にあがることは皆無。『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』の特大ヒット(2023年の世界興収第2位)とドラマ版『The Last of Us』の成功を経ても、依然、映画にとってゲームは文化的な他者でありつづけている。
そんな折、小島秀夫率いるコジマプロダクションが『デス・ストランディング』映画化にあたってA24と共同製作契約を結んだことを発表した。
小島秀夫は『メタルギア』シリーズなどで知られる、世界一有名な日本人ゲームクリエイターである。
一方、A24は昨年度のアカデミー賞において並みいる大作を押しのけ『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』で2度目の作品賞を受賞した、近年最有力の独立系映画製作・配給会社である。
この二者が組んだことの意味がわからない人のために説明しておくと、まあ、べらぼうな事態である。
考えてみれば、小島秀夫とA24は似ている。
2012年設立のA24は、ディズニー(マーベル/FOX/ルーカスフィルム/ピクサー)という帝国が君臨するここ10年のハリウッドにおいて、インディー・スピリットの擁護者として信頼を築いた。クリエイターたちにほぼ完全な創作の自由を委ね、余計な口出しを行うことはほぼないといわれる。
かたや2015年にコナミを巣立って以後の小島も、やはり大手が次々と独立系ゲームスタジオを買収する潮流に抗し、会社の独立性と創作の自由を強調してきた。そんな彼の独立後第一作こそ『デス・ストランディング』だった。
誤解を招いたようですが、コジプロはこれまでも、これからも独立系の制作スタジオです。 https://t.co/RySjZrCHkM
— 小島秀夫 (@Kojima_Hideo) April 15, 2022
そんなかれらが手を結ぶこと自体、すばらしくロマンティックだ。
と同時に、近年のゲーム原作映像化における勝利の方程式にそってもいる。先述のドラマ版『The Last of Us』では、原作のディレクターであるニール・ドラックマンがメイジンとともに共同クリエイターとして制作に深くコミットし、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』ではマリオの生みの親である宮本茂が監督と同等の決定権を持っていた。映画版『デス・ストランディング』でも、小島は監督こそ務めないものの、「プロットやルック、デザイン、内容にも深く関わ」るという。
今日のQ&Aで回答で誤解があったかも知れませんが、DSの実写化は、監督を担当しないだけで、プロデュースや監修、プロットやルック、デザイン、内容にも深く関わります。
— 小島秀夫 (@Kojima_Hideo) June 18, 2023
もともと小島は映画監督志望だった。『メタルギア』シリーズのスネークが、カーペンターの『ニューヨーク1997』から採られているのは有名な話。いまでも一日一本鑑賞する映画オタクである彼のゲームは、しばしば「映画的」と形容される。しかし、その実、映画を知るからこそメディアの境界を意識し、「ゲーム的」なゲームを目指すクリエイターでもある。
たとえば小島の「映画性」の代名詞と見なされがちなカットシーンをとってみても、『メタルギアソリッド』時代から先駆的に、ドラマを形作ると同時にカットシーン外のゲームプレイや物語理解のヒントとなる情報をちりばめ、ゲーム全体がなめらかなひとつの体験になるようデザインしている。
かつて、小島は「自分の目標はビデオゲームでしか語れない物語を語るビデオゲームを作ること」だと言った。
約20年後、A24との契約をアナウンスする際、彼は映画『デススト』が「映画であることの意味に満ちた、映画でしかできない」映画になると宣言した。
ゲームをゲームとして作るように、映画も映画として作る。爆発とアクションでいっぱいのブロックバスター大作でなく、アートハウス志向の映画にしたい、と語る小島にとって、A24は理想のパートナーだろう。
しかし、今回の映画化は映画以上のなにかになる可能性も秘めている。昨年、ある映画祭で小島は、映画とゲームの技術的接近に触れ、「『水と油』と言われたゲームと映画が、ようやくひとつになろうとしている」と述べた。別のインタビューでは、映画とゲームは「ストリーミングという所で同じ場所に集まり」、やがて「どちらでもない新しいデジタルのエンターテインメントができる」と予言している。自身の役割は「映画とゲームの橋渡しをすること」とも。
映画とゲームを統合すること。その野望は先日発表された新作『OD』についてのコメントからも伺える。「“新しいメディア”の創造に挑戦しています。この作品はゲームであり、同時に映画でもある」。
この情熱が、小島自身が映画の領域に留まらせようとしている映画版『デススト』に意図せぬ化学反応を起こしたら? あるいは、やはり映画に留まるのだとしても、次世代のメディアを兆す作品になるかもしれない。なってほしい。
現時点ではゲーム版『デス・ストランディング』のキャラが映画版にも出てくるかは明かされていない。しかし奇妙な確信がある。わたしたちのサム・“ポーター”・ブリッジズは必ずスクリーンに現れてくれるはずだ。映画とゲームを渡す橋(ブリッジ)となるために。
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