崖っぷちの名場面──「ゼルダの伝説」や「ファイナルファンタジー」が描く“断崖”の演出と意味

ビデオゲーム(以下、ゲーム)で遊んでいると、高い崖の上に立つ場面に出くわすことがある。美麗なグラフィックスを謳うオープンワールド作品だと、特にそういうシチュエーションが多い。眼下には広がる大地、もしくは何も見えない深い闇。落ちたらどうなるのか、ジャンプした先に何があるのか……そんなことを考えながら、足を止めてしまう。
ジャンルにもよるが、プレイヤーの記憶に残る名場面には、「崖の上」が関係していることが意外と多い。というのも、ゲームにおける自然な地形のひとつとして描かれる断崖や絶壁は、ただの背景として通り過ぎるにはもったいないくらい、たびたび印象的なシーンの舞台になっているからだ。
本稿ではいくつかの実例を踏まえつつ、ゲームが描く崖の象徴性について考えてみたい。
断崖は物語の選択が試される場所
筆者の脳内にまず思い浮かんだのは、『ファイナルファンタジーVI』(1994年/スクウェア)における“魔大陸からの脱出劇”だ。
この地では、帝国を手中に収めようと画策する悪役「ケフカ」により、世界の均衡が大きく乱れてしまう。その結果、プレイヤーの奮闘むなしく魔大陸は崩壊。本作の前半と後半を分かつ上で重要なイベントであり、ケフカの異常性があらためて露わになる印象的なシーンと言えるだろう。

ではなぜ、魔大陸からの脱出が印象深い場面だと捉えられるのか。それは、“プレイヤーの選択次第で「シャドウ」の生死が明確に変わるから”ではないだろうか。
『ファイナルファンタジーVI』には、暗殺を生業とする黒装束の男「シャドウ」が登場する。最初から最後までパーティーに同行するわけではないものの、対価を支払えばパーティーに参加し、戦力として役立ってくれる頼もしい存在だ。

魔大陸の攻略シーンでも颯爽と登場し、窮地に陥ったプレイヤー陣営を救ってくれる。しかし魔大陸の崩壊は食い止めることができず、プレイヤー陣営はその場から脱出することを決意。「俺に構うな、早く行け!」と言い放つシャドウを残し、飛空艇を目指すことになる。
このとき、制限時間が残っている状態で飛空艇に乗り込むと、シャドウはその後のストーリーで二度と現れることがない。逆に制限時間の終了間際まで待っていた場合、「報酬をもらわないうちは、死んでも死にきれない」と語りながらシャドウが再登場。そのままシャドウと一緒に飛空艇へ乗り込み、命からがら魔大陸から脱出することができる。
魔大陸が刻一刻と崩れ行くなか、生命の危機(=ゲームオーバー)に怯えることなく辛抱強くシャドウを待つのか。それとも、なかなか現れないシャドウにしびれを切らし、飛空艇に飛び乗って去ってしまうのか。シャドウの命運は、文字通りプレイヤーの手に委ねられている。

そしてこの選択の舞台は、後がない断崖のギリギリ。崖が持つ物理性とでも言うべきか、そこには高低差があり、(システム的に落ちることはないにしても)その場に立っているだけで緊張感が生まれる。こうした断崖に「シャドウを待つか否か」という重要な選択が絡んでくるからこそ、プレイヤーの記憶に刻まれるワンシーンになったのではないだろうか。

この構造は、たとえばノベルゲームやアドベンチャーゲームにおける岐路にも似ている。しかし断崖があることで、視覚的にも「後戻りできない感覚」が強調されるのだ。地形によって感情を操作する──それが崖という舞台の力なのかもしれない。
終わりではない。始まりを描く場所としての崖
断崖は、ただの危険な場所ではない。終わりを演出するだけではなく、「始まり」の場所でもある。
冒頭で述べたオープンワールド形式の作品を挙げるならば、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』(2017年/任天堂)は格好の例だろう。
本作のオープニングは、「ゼルダの伝説」シリーズでも異色だと言える。プレイヤーは真っ暗な空間の中、主人公「リンク」の意識が戻るのをゆっくりと見守ることになる。
リンクが目覚める場所は、始まりの台地の地下に構える「回生の祠」。静寂と神秘に包まれた場所で、まるでコールドスリープから目覚めたかのように、全裸に近い状態で起き上がる。この時点でプレイヤーにはほとんど情報が与えられておらず、「自分が誰で、ここがどこなのか」すら分かっていない。言わば“ゼロからのスタート”である。

祠の内部で「シーカーストーン」を受け取り、謎の声に導かれるまま薄暗い通路を進んでいく。そして出口にたどり着いたその瞬間、まばゆい光が画面上に広がり、リンク(=プレイヤー)が立っているのは切り立った崖の端であることがようやく明らかになる。眼前に広がる草原、山々、遠くに見えるハイラル城。ほんの数十秒で、プレイヤーに“世界の広さ”と“まだ知らぬ脅威”が一気に提示される。
わずかな場面ではあるものの、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』の冒頭シーンには、「どこへ行ってもいいし、何をしてもいい」という自由にくわえ、「決断し、世界を救うために旅立つ」という覚悟の必要性が込められているように思える。

いまさらあらためて筆者が言うことでもないが、説明や台詞に頼らず、視覚体験と身体感覚でゲームのコンセプトを伝える洗練された導入部ではないだろうか。崖の上で世界を見渡す──この行為がリンクにとっての“再起”であり、プレイヤーにとっての“冒険の始まり”である。
崖はゲームとプレイヤーをつなぐ“境界線”
崖という地形には、いつも「境界」の感覚がある。行ける場所と行けない場所、生と死、これまでとこれから。その“縁”に立たされることで、プレイヤーは何かを決断しなければならなくなる。
待つか、進むか、引き返すか。キャラクターの背中を見ながら、プレイヤー自身の感情も揺れ動く。崖はそんな「ゲームとプレイヤーの接点」として機能する、不思議な場所だ。
筆者の場合、崖の上に立っている(もしくは立たされている)ゲームのワンシーンがふとしたタイミングで脳裏をよぎる。個人差はあれど、断崖に心を動かされるプレイヤーは意外と多いのではないだろうか。
誰かと別れた場所、大切な選択をした場所、そして新しい旅に出た場所。断崖は、ゲームの中でいちばんドラマが生まれる“縁”なのかもしれない。






















