『ストリートファイター6』トップランカーに“チート疑惑” 運営も「レートリセット」の一大騒動に思うこと
プレイヤーの不正疑惑と運営の対応が、『STREET FIGHTER 6』(以下、『ストリートファイター6』)の界隈を賑わしている。
ゲームにチートを用いる心理とはどのようなものか。協力・対戦ゲームにおいて喫緊の課題となりつつあるチート問題を考える。
ランキング1位のプレイヤーにチート使用疑惑。運営がレートをリセットする対応に
話題の中心にいるのは、『ストリートファイター6』のゲーム内ランキングで1位を獲得した“あるプレイヤー”。キャミィを愛用するその人物は、11時間という短いプレイ時間で世界ランク1位まで上り詰めた。注目すべきはその内容について。トッププレイヤーを集めたレート帯「MASTER」でも多くの対戦を行いながら、80%超えという高い勝率を維持しつつ、数少ない負け試合では、操作を放棄する「捨てゲー」のような内容も目立っていた。こういった経緯から、「チート(※)なのではないか」と疑惑の目が向けられていた背景がある。
10月15日には、「実況パワフルプロ野球」「スプラトゥーン」といった競技タイトルにおける元プロであり、かつ現在は『ストリートファイター6』の上位プレイヤーでもあるストリーマーのたいじ氏が、視聴者の依頼に応える形で疑惑を検証。最終的には「わからない」としたものの、何度も動きを不審がる言動を見せた。翌10月16日には、「ストリートファイター」における現役プロのマゴ氏が、チートであるかを検証する動画を投稿。このなかで同氏は、自身が実際に対戦した経験を踏まえながら、ガード/ヒット確認時の反応の早さと、上位帯ではあり得ない操作/コンボの選択の稚拙さを指摘し、「チートである可能性が高い」と結論づけている。
事態が動いたのも、同日。運営は当該プレイヤーのゲーム内レートをリセットする対応を行った。本人の自白があるわけではないため、真偽のほどは不明だが、実質的に「チートである」という最終判断が下された格好だ。
※「いかさま」を意味する英単語「cheat」に由来する表現。ゲームの分野においては、プレイを有利に進めるために、制作側の意図しないプログラムを使う不正行為を指す。
チート使用の裏にある承認への過剰な追求
ゲームにチートを用いる心理とは、どのようなものだろうか。私も幼いころには、公表されている裏技やバグを使用した経験がある。そのときの心境を思い返すならば、そこにあったのは、「プレイを有利に進めたい」という願望だ。『FINAL FANTASY VI』で本来は装備できないはずのアイテムを装備したり、『ポケットモンスター 赤・緑』で既存のポケモンをミュウに変化させたり、当時の自分が考えるゲーム体験の良化のためなら、どのような後ろめたい方法であっても厭わなかった時代があった。いま振り返ると、本当の意味での良質なゲーム体験は、その先にはなかったように思う。
昨今のゲームカルチャーにおいて、チートを使用する心理は、当時の私の心境と同質のものだろうか。なかには、おなじような感覚でバグや裏技を使用しているプレイヤーもいるかもしれないが、残念ながら、その質問に対する答えはノーだ。現代はインターネットを介して、さまざまなプレイヤーとゲーム上で交流する時代。だからこそ、「プレイを有利に進めたい」という気持ちは、「他のプレイヤーより強い自分でいたい」という、承認欲求のようなものと共存していくことになる。
もちろんオンライン要素をいっさい含まないタイトルであれば、チートに分類される裏技やバグを使用しても、大きな糾弾の対象にはなり得ないだろう。それは裏を返せば、問題となるチート利用の大半が、協力・対戦を含むタイトルでの事例であるということでもある。自ずとユーザーの心理に含まれる後者の比重は高まってくるはずだ。
承認への過剰な追求は、もはや現代における社会問題のひとつであるのかもしれない。かつては小さなコミュニティでしか起こり得なかった事象が、インターネットという新しいインフラを通じて、誰の目にも触れる場所にまで表出されるようになってしまった。SNSでときおり見かける著名人に対するマウンティングなども、その一端なのではないか。「広く知られているあの人の意見の矛盾点を突いた」といった行動から得られるであろう充足感・全能感もまた、承認欲求を拗らせた末の心理だと言える。その背後には、「(自他のどちらに責任があるかは別として)社会活動のなかで承認欲求を満たせない」という問題の存在も見え隠れする。
協力・対戦ゲームにおいて、チートを使用する心理は、こうした社会問題とも地続きのような気がしてならない。そこにあるのはもはや、「ゲームというコンテンツから、心理的・技術的に成長している感覚を得たい」という本来あるべき意図から逸脱した体験価値だろう。「“公共の福祉”に反しても、承認への追求を優先する行動」が倫理的に正しいと言いがたいことは、いまさら言葉にするまでもない。