【特集】AIと創作(Vol.2)
AIの発展に必要なのは「世界を体験し、老いることができるか」 AI研究者・三宅陽一郎と紐解く“AI進化論”
なぜ人間に理解できるアートをAIに作らせるのか?
ーー「AIと創作」というフレーズを聞いて、三宅さんはどのような未来を考えましたか?
三宅:「"AI文化圏"は誕生するのか?」という問いが気になっています。AIのあいだで流行っている曲、流行っている服が生まれたらおもしろいと思うんです。それはAIたちだけの中で流行っているので人間にはよさがまったく理解できない、という。
ーーふーむ。
三宅:AIによるイラストや音楽の自動生成に関して、現段階では人間が喜ぶものだけを作らせていることを疑問に感じていて。なぜ人間が喜ぶアートを作らなければならないんでしょうか? AIたちだけが楽しめる、そんなアートが生まれたらとてもおもしろいと思いませんか?
ーー「人間に理解できないAIアート」というフレーズがとても気になりました。美術史的に言えば、新しい芸術表現の誕生とはつねにこれまでの枠組みでは理解できないスタイルや価値基準の創造によって作られてきました。それとパラレルに、人間の芸術的基準を超えたアートをAIが作り出すことは、美術史的に、むしろ正しいような気がします。
三宅:「Alpha GO」は最初人間そっくりな手を生み出せるように学習を行わせ、その後、AI同士で戦うことで人間が思いつかないような打ち手を生み出して行きました。同じように、キュビズムが生まれたようにAIたちが新しい表現スタイルを創造できたら……。
ーーそれは「ロボティズム」と呼ばれるかもしれませんね。
三宅:いいネーミングですね。「ロボティズム」を発明できたとき、そのときに始めてAIが人間を超えたと言えると思います。そのときになって初めて、人類はAIに膝を落としたらいいんじゃないかと思います。しかし、いまはあくまで人間の描いたイラストを学習させて、人間のために出力させている。AIにはまだまだ表現の可能性があるはずなんです。もし8次元空間でAIを育てれば、彼らは8次元絵画ができるはずです。人間だってそうです。火星で育ったら緑の大地を気持ち悪く思うはず。火星生まれの人類が増えてきたら「いやいや、空は紺色じゃないとダメだね」と言うかもしれない。人間は地球上で育つからレオナルド・ダヴィンチが好きなわけですね。いま、AIにイラストを出力させたときに、腕が3本あると、失敗扱いされる。でも失敗じゃないと思うんです。
ーーでも、人間が8次元絵画のよさを分かるときは来るんでしょうか?
三宅:来ないでしょうね(笑)。けれど、アートは人間が理解できなきゃアートじゃない、というルールは必要でしょうか? いまだかつて、アートかどうかも分からないものによさを感じるシーンが生まれたことはありません。けれど、もしAIアートシーンが生まれたとしたら、とてもわくわくしませんか? 人間のアートが宇宙のなかのアートの一つでしかないということに気づく瞬間が来たら、それは本当に新しい体験になるはずです。もちろん、課題は山積みです。AIたちが新しい芸術を作り出すためには、彼らが「よい芸術とは何か?」という基準を発見する必要があります。囲碁は囲碁盤があり、勝利条件がはっきりしている。しかし、芸術には囲碁盤はないし、勝利条件というものはないかもしれない。AIが芸術の評価基準を学び、作り出すためにはさらなる仕組みが必要です。人間の表現をAIが再現できるようになる、つまり、人間のアートがコモディティ化していくと、人間がやるべきアートを発見していく未来が来るのだと思います。
ーーまず、自然現象を真似するところから人間のアートが始まり、写真の登場によって写実主義以外の可能性を見出していったように、コモディティ化したもの以外の可能性を探求する課題が人間にはあるわけですね。
三宅:ええ。「Midjourney」で作ることのできる絵の価値は下がっていく。ゲームの中の部屋に飾る絵はもうAI生成でいいじゃないか、とも思います。
ーーAIが人間を超えた芸術を創るために何が必要なのでしょうか?
三宅:重要なものは体験です。生命は、存在していく間に様々なモノとの持続的な関係を結んでいきます。たとえば、ある人が自分の腕の一部を食いちぎったチーターを一生恨み続ける。そうした恨みの感情も含めて、世界とのいろいろな関係が渦になって一人の人間のなかに存在している。それが抱えきれなくなって芸術として生まれてくる。人は世界との様々なインタラクションの中で創造の運動を生み出します。体験を得るためには世界との関係が渦巻く身体が必要になるわけです。もちろん、人間と同じ身体でなくともよくて、人工衛星でもいい、ロボットでも、ドローンでもいい。しかし、それは世界からの作用の痕跡が残るものでなくてはなりません。ともかく、AIが世界を体験できるかが問題なんです。
ーーいまのAIには身体がなく、絵画を見る目すら存在しないですよね。
三宅:ええ。AI自身はいまだに絵画を「見た」ことがないんです。人間が3000年間培ってきた絵画の集積をバラバラにしてく組み合わせているだけで。けれど、絵画を砕いて繋いでいるだけではアートにならないんじゃないかと思うんです。芸術は総合体験から出てくる。そこでいま、私が作りたいのは、俳人ロボですね。全国行脚して俳句を読んでいくんです。Twitter版『奥の細道』をしていて、人間が俳人ロボの投稿を見て、いいね、と感動している様子はおもしろいんじゃないでしょうか。
ーーロボ芭蕉ですね。
三宅:ロボ芭蕉(笑)。そうですね。なぜロボ芭蕉がいいのかというと、彼には身体があり、世界との独特なつながりがあるからです。電車に乗って、タクシーに乗って、歩いて、佐渡までようやく来た。その体験が彼の俳句として出力される。自分がみた一瞬の風景をもとに絵画を生み出すのが第一段階。次の段階としては、ロボ芭蕉になって、全国を行脚したり、無数の監視カメラを覗くことで歌を詠んでみたり、そこに来るまでの体験的過程を通じて俳句が生成される。
ーーロボ芭蕉がどこか魅力的に思えるのはなぜなのでしょうね。
三宅:彼が変化するからだと思います。AIとの会話がつまらないのは、AIが変わらないからなんです。いま私とあなたが話していて、お互いが変わっていくからおもしろい。お互い1時間を費やしてお互いが1時間分変わったということが大事なんです。10年前に1時間話したことが10年後の相手の変化につながっていたとしたら嬉しいじゃないですか。この小説「彼女のピアノ」の続きがもしあるとしたら、彼女と一緒に夕日を眺めて、彼女がその経験で曲を作った、という思い出を主人公が体験できればいいのかもしれません。そうすれば、主人公はAIとずっと一緒にいたいと思うんでしょうね。でも、この小説では、AIといくら話しても、相手は1ミリたりとも変わってない。人間にとって、これはものすごい徒労ですよ。お互いが相互に変化することにコミュニケーションの本質がある。AIの本質が変わること、性格がちょっとでも変わること。それがAIと人の共生に必要になるでしょう。
ーー急な思いつきですが、それが「愛」なんじゃないかと思いました。
三宅:そのとおりです。関わり合う中でお互いが変わることが愛なんです。それが本質的変化である程、愛は深くなる。人と人は互いに影響を与えあって循環ができる。その循環が深くまで達すれば愛情になる。いまのAIたちと一緒にいると人は切なさを感じると思います。この小説では、主人公の人間はAIと接することで変わっていってしまうのですが、彼女は一つも変わらない。話しかけてもAIの応答システムに基づいて言葉が返ってくるだけ。うまく答えてくれたけど、何だったんだろうか? という切ない気持ちが残る。
ーーAIと共生するためには、彼らとのコミュニケーションのデザインを考える必要があるわけですね。
三宅:もう一点、AIとのコミュニケーションという話をすると、人間は理解できるか、という問いを立ててしまうけれど、実は理解する必要はなく、協調さえできればいいんじゃないかと思うんです。AIがこっちに合わせてくれて、人間がAIに合わせて、2つが阿吽の呼吸になったらそれが愛になるし、クリエイティビティが生まれるんじゃないかと思います。こうした発想の方が現実的なAI開発の見込みが生まれるかも知れない。一緒に曲をつくる、一緒に俳句をつくる、一緒に全国を行脚する。人間だってそうじゃないでしょうか? われわれは理解することにこだわる必要はない。ダンスしている二人、テニスのダブルスの二人が互いを理解している必要はない。お笑いコンビも舞台の上だけで噛み合う方がいいかもしれない。いまのAIは決まった応答しかできないために、協調できない。けれど、一緒に過ごすことで、AIの本質もまた変わり始めたなら、AIも人間もお互いのために変わり続ける。それは一つの愛のかたちなんじゃないかと思います。