『マリオパーティ スーパースターズ』にみる「パーティゲーム」の決定的条件
『マリオパーティ』で体験する「運ゲー」と「競技」の往復
ここで「パーティゲーム」の厳格な定義を示したいわけではないが、こうした諸特徴を指示したうえでみえてくるものとは何だろうか。
「遊び」研究の古典であるロジェ・カイヨワ『遊びと人間』を翻訳した多田道太郎は、遊びを「俗世間からの解放としての自由」であると位置づけたカイヨワの整理を拡大し、こう述べている。
「自由とは、自発的な意思を持って遊びに参加するということにほかならない。したがって、脱意思の遊び、たとえば賭けごとは(略)稔りないものとして片付けられる。それは文化創造機能を持たないというのである。だが、賭けには、絶えず社会から強制されつづける意思と積極性とを決定的に放棄するところに生まれる喜びがある。それは脱意思の遊びであり、解放の遊びである。このような解放の喜びにも、私たちは、束縛からの脱却としての「自由」をみとめたほうがよいのではないか」(ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』講談社学術文庫、1990年、363頁)
遊びは、何らかの意思決定を強いられる俗世間からの解放としてある。それが多田によるカイヨワの理解だ。「意思」の世界から「脱意思」の世界へ。それをもたらすのが「遊び」である。
ただし、ビンゴも格ゲーも「遊び」には違いないが、前者には(それだけをプレイするならば)熱中できそうもないし、後者はどうしても敷居が高く感じられる。単なる「運ゲー」と「競技(的な遊び)」と「パーティゲーム」。これらを比べたとき娯楽性が最も高いと思えるのはパーティゲームのようである。なぜだろうか。
それはおそらく、私たちが体験したいのは「意思からの解放」それ自体であるからだ。つまり、意思の世界から脱意思の世界へ向かう、その一瞬を体験したいのだ。「絶えず社会から強制されつづける意思と積極性とを決定的に放棄する」、その一瞬に「生まれる喜び」である。
だからパーティゲームには「運ゲー(脱意思)」と「競技(意思)」が混在していて、それらを「反復」することで、意思を経由することによって脱意思へと向かうその瞬間を楽しめるのだろう。純粋な運ゲーであるじゃんけんやビンゴをプレイするだけでは脱意思に「向かう」ことはできないし、競技中に脱意思に身をゆだねれば敗北を招きかねない。「意思」から「脱意思」へと「移行」するその瞬間の提供装置として、パーティゲームという遊びがある。
そう考えると、「すごろく」パートと「ミニゲーム」パートがはっきり二分されている「マリオパーティ」は、パーティゲームのありようを端的に現わしていると思えてこないだろうか。脱意思の遊びとしてのすごろくと、意思の介在する競技的なミニゲームとを繰り返すことが、このゲームの根本的なルールなのだから。
先述したように、今作でミニゲームのランクマッチが追加されたことは、「すごろく」と「ミニゲーム」の距離を引き離すことに寄与しているだろう。しかしそれは、いや、むしろだからこそそれは、「意思」から「脱意思」へと向かうその振れ幅をも大きくしている。脱意思の空間への解放をもたらす遊びとしての「マリオパーティ」の中ではさらに、「意思」から「脱意思」への解放をくりかえす循環構造が見出せるのだ。
*1 「おちるな!たにぞこバトル」など「○○!~~~~」という構文のネーミングが印象深いのか、この「マリパ文法」とでも言うような言葉遣いを利用したギャグは時折SNS(主にTwitter)で見かけられる。
*2 ただし「ウェーブウェーブ」や「ヒヤヒヤやしのみ」など、明らかに一方のチームが有利だと思われるようなミニゲームも存在する。
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