『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』が“ヒーロー映画”として成し遂げたもの

 アメリカ本国で、事前の予想をはるかに超えるスタートダッシュで大ヒットを記録、日本でも好調な滑り出しを見せている、映画『スパイダーマン』シリーズ最新作『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』。世界的な人気シリーズとはいえ、ヒーロー映画ブームが停滞を見せていたタイミングでの、この熱狂ぶりには素直に驚かされるものがある。

 そんな本作『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』の内容は、この興行的な成功をもたらしたことへの納得のいく点や意外な点がさまざまに存在していた。ここでは本作の内容を振り返りながら、何が描かれていたのかを具体的に検証しながら、ヒーロー映画としての事情と成し遂げたものについて考えていきたい。

 物語の中心にいるのは、もちろんピーター・パーカー(トム・ホランド)だ。前作『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021年)のラスト、彼は世界や恋人MJ(ゼンデイヤ)、友人のネッド(ジェイコブ・バタロン)らを救うため、「全世界の記憶からピーター・パーカーという存在を消す」という選択を余儀なくされた。すべての人々がピーターを忘れたなかで、再度スパイダーマンとして街を守りながら、誰でもない人間として生きることになるのだ。ヒーローの責任を果たすために、これまでの人生を丸ごと差し出したのである。

 そうした展開を受け本作は、過酷な決断後のピーターの、孤独なヒーローとしての日常を映し出していく。原作コミックカバーを再現するカットをいくつも用意しながら。また、蜘蛛由来のスーパーパワーが、時として理性を狂わせる事態に直面したピーターは、怪物化問題と戦いながらも、一度は手放した個人としての人生を取り戻そうとし始めるのだ。そんな彼の前に立ちはだかるのは、理不尽な出来事で喪失に囚われ、暴走を始めた新たな脅威である。孤独に全てを背負い込もうとするその姿に、ピーターは自分の内面の問題をも見出していく。

 本編で驚かされるのは、マーベル・スタジオによるMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)との接続部分の多さである。『スパイダーマン』の映画化権を長く握っているのはソニー・ピクチャーズであり、近年は両スタジオが協力関係を結んできたことで、相互の要素を登場させて作品を盛り上げることができたのだ。

 それは大きな強みでもありながら、ソニーが単独で大ヒットを達成する機会を逸するということでもある。『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』のラストで、ピーターの存在が世界から消された展開には、おそらく物語上だけでなく、スパイダーマンをMCUというタイアップの枠組みから一度切り離し、単独でのシリーズ継続という選択肢を広げる意味があったのかもしれない。だが本作では、マーベル・スタジオのヒーロー作品を統括するケヴィン・ファイギがこれまでと変わらずプロデューサー(P.G.A.)として名を連ねているだけでなく、マーベル・スタジオ側が権利を持つキャラクターや世界観を次々に投入していて、今後のMCUのプロモーションのように感じる部分すらある。

 両社の契約の中身は分からないし、ソニー・ピクチャーズの方針は時に流動的であるものの、今回MCUにクリエイティブについての主導権を渡しているように見えるのは、前作からの流れを考えると、その腐心した部分が無になっていると思わずにおれない。またストーリーのつながりを考えても、あれほど悲劇的だった決断を、本作が拍子抜けするほど早い段階でひっくり返してしまうことで、ピーターの決意が何とも軽いものになってしまったのも確かだろう。

 とはいえ、前作の決断を覆す試みが、単なるフランチャイズ上の問題だけというわけでもないだろう。『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』は、爽やかな青春ものという枠組みでありながら、いくつかの悲劇を経て、「スパイダーマン」のパブリックイメージへと着地した内容だったといえる。「大いなる力には、大いなる責任が伴う」という哲学を念頭に、代償や犠牲のなかでスーパーパワーを発揮して戦っていくことが、ある種のスパイダーマンらしさであったといえる。

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