『Tシャツが乾くまで』人はなぜ“物語”を求めるのか “充”松山ケンイチの失踪が映す本質
「つまり、事故のとき夫はバスに乗っていなかった?」
誰もが、充(松山ケンイチ)が生きていてほしいと祈っていた。だからこそ私たちは、断片的な事実のあいだを「きっとこうだろう」「こうであってほしい」という想像で埋めながら、彼の不在を受け止めていたのかもしれない。
だが、まさか事故に遭う前に、バスから降りていたとは――。金曜ドラマ『Tシャツが乾くまで』(TBS系)第3話は、私たちが知らず知らずのうちに組み立てていた“納得できる物語”を、揺さぶっていく。
充は、たしかにあずさと一緒にバスに乗っていた。だが、事故に遭う直前、なぜか身の回りのものをすべて車内に残し、バスを降りていたのだ。少なくとも、充はあのバス事故には巻き込まれていなかった。では、なぜ戻ってこないのか。もし自らの意思で姿を消したのだとすれば、生きているかもしれないという安堵と同時に、咲子にはより残酷な疑問が残る。
その足取りを探るべく、充が立ち寄ったと思われるサービスエリアに向かう咲子と樹生。レンタカーに乗り込む瞬間、咲子の胸にわずかな罪悪感が立ち上る。充以外の男の人が運転する、二人きりの車の助手席に乗ること。それは、傍から見れば特別な意味を持つような気がして……。
案の定、咲子が直人(高橋文哉)に樹生と車に乗ることを告げると、「気をつけてくださいね」と釘を刺される。また、樹生も母親から、「車は気をつけないと」なんて言葉を投げかけられる。
果たして、何を「気をつける」のだろうか。たしかに、前話では二人の距離が近づく場面もあった。「ちょうどいい」と言ったり、「気をつけて」と言ったり。周囲は目の前の断片をつなぎ合わせ、二人の関係にわかりやすい筋書きを与えていく。
実際とはかけ離れた形で、周囲から意味づけられてしまう窮屈さ――。充とあずさが月に一度、コインランドリーで会っていたことも、誰かに話した瞬間、当人たちの認識とは異なる意味を与えられてしまう可能性があった。その煩わしさを避けたくなる気持ちも、わからなくはない。
また、人の選択を縛るのは、周囲の視線だけではなかった。相手を思う日々の小さな気遣いもまた、いつの間にか自分の行動を少しずつ変えていく。事故当日に充が買ったというカレーパンを頬張りながら、咲子はあることを思い出す。このカレーパンには、かぼちゃが入っていたのだ。
咲子はかぼちゃが好きだ。でも、充はかぼちゃが苦手だった。それでも充は、かぼちゃ入りのカレーパンを2つ買った。自分が苦手なものでも、相手が好きなものであれば、自分と相手の分を選ぶ。あの日も、かぼちゃが好きなあずさの分と、自分の分、2つのカレーパンを買ったという。
一方、咲子もいつしか、充の前でかぼちゃを食べることを遠慮するようになっていた。残り物のカレーにかぼちゃを入れる。ただそれだけのことなのに、なぜかコソコソしてしまう。充が帰ってくる前に食べてしまおうと急ぐうち、好きなはずのかぼちゃを、ゆっくり味わうことさえできなくなる。
そういうことは、誰かと生活をともにしていると往々にしてあるのではないか。相手を思って選択肢を譲ることは、愛情でもある。けれど、その小さな譲歩が積み重なるほど、自分の「好き」がどこにあったのか、わからなくなっていくような感覚……。
花火大会がどうしても苦手な咲子。それを知っていた充は、彼女を花火大会には誘わない。水族館がどうしても苦手だった樹生。だから、あずさも水族館に行こうとは樹生には言わない。誰からも花火大会や水族館に行く権利を奪われたわけではない。
けれど、どうせなら相手が喜ぶことを選びたい。一緒に楽しめないものは、最初から選択肢から外す。その一つひとつは思いやりでありながら、相手の「好き/苦手」によって、自分の行動まで少しずつ形を変えていってしまう。「私」が少しずつ失われ、「私たち」であることを義務づけられていくような……。