『スーパーガール』が突きつけた新生DCスタジオの光と陰 テーマ的な強度と創造性の弱さ
DCユニバース最新作『スーパーガール』が日米同時公開を迎えた。ジェームズ・ガン、ピーター・サフランが統括する新たな体制「DCスタジオ」が始動し、その第1弾映画として、本作の前に公開された『スーパーマン』(2025年)は、非常に高い評価を得ていた。今回公開されたのは、その劇中において鮮烈な印象を残していた、ミリー・オールコック演じるスーパーガールを主人公にした一作だ。
地球で愛されて育った従兄のスーパーマンことカル=エル(デヴィッド・コレンスウェット)とは対照的に、過酷な運命を生き延びてきたカーラ・ゾー=エル(ミリー・オールコック)。本作は、正しい女性ヒーロー像の枠組みを軽く揺るがしながら、どこか乾いた手触りで進行していく。ここでは、この新たなヒーロー映画が真に描こうとしたものが何かを考えながら、作品の出来についても検証していきたい。
本作のベースとなっているのは、2021年から発表されたコミック『スーパーガール:ウーマン・オブ・トゥモロー』である。この原作は、長年培われてきたスーパーマン神話を見直しながら、同時に、古典的なウェスタン映画と、壮大なスペースオペラとを融合させた内容として話題になった作品だった。
ここでまず注目したいのは、スーパーマンとカーラとの間の生い立ちの違いである。赤ん坊の頃に滅びゆくクリプトン星を離れ、地球のケント夫妻のもとで愛されて育ったスーパーマンとは異なり、カーラは多感な時期まで故郷の地で生き、悲劇を目撃して深く傷ついていたのである。その記憶と打ち沈んだ感情こそが、彼女の物語には暗く横たわっているのである。
映画版のカーラは、23歳の誕生日を迎えるとき、スーパーパワーを無効化してしまう赤い太陽の光が降り注ぐ辺境の惑星に身を置いていた。そこで彼女は、ただ酒に溺れ、虚無感に苛まれている。さまざまな試練はありつつも、基本的には地球の人々から希望の象徴と見られている従兄スーパーマンとは対照的に、彼女は存在意義を見失ってしまっているのだ。
そんな彼女がたどっていくのは、名作西部劇『勇気ある追跡』(1969年)に似た物語である。父親を殺された少女が、大酒飲みの連邦保安官(ジョン・ウェイン)を用心棒に雇い、仇討ちのために荒野を追跡する……あの古典的な物語の構造が、おそらくは本作の物語の基本的な部分を占めている。
酒に酔って荒野を彷徨う、ふてぶてしい西部劇の男のような特徴を持っているカーラは、もちろん正統派のヒーローとは一線を画する存在である。世界、宇宙じゅうで、理不尽な暴力が横行しているのに、何もしない。『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』(2017年)や、『クルエラ』(2021年)などの作品で、不完全ながら芯の強い女性像を描いてきたクレイグ・ギレスピー監督は、ここでもカーラを不安定で揺れるヒーローとして表現し、生々しい人間性を立ち上がらせているのだ。