『急に具合が悪くなる』濱口竜介の驚くべき跳躍 西洋的な合理性を超えた“あわい”の希望

 このような映画的ではないと感じさせる瞬間は、濱口監督ならではの“異化効果”を生み、それがまた、やはり濱口監督的な“どう転ぶか分からない”雰囲気を呼び込み、不安感を醸成させていく。映画らしい映画ではない。しかし、映画らしくない部分を含む映画であるからこそ、そこに現実と錯覚させる時間が生まれることになる。そしてそれもまた映画であるという事実が、われわれ観客の認識を拡張させていく。これこそが、『ドライブ・マイ・カー』同様、本作を観ることで得られる最大の愉悦なのかもしれない。

 重要なのは、この施設で真理が入居者の身体に触れ、ユマニチュードを一度体験しているという点だ。肉体の接触を経たからこそ、その肉体を抑圧する資本主義的な構造を考えずにはいられなかった。こうした、地に足のついた現実の感覚と、より大きなシステムという概念への意識を持つという反復が、本作にとっては非常に重要なものとなっている。それはマリーが直面する、人手不足の現場と理想のケアの両立が極めて難しいという構図を際立たせるのだ。

 そうした対立構造は、マリーとベテランの看護師ソフィ(マリー・ビュネル)との関係によっても描かれる。ソフィのマリーに対する苛立ちは、リベラル的な理想主義が陥る一種の傲慢さに対する、現場からの反発だといえる。ユマニチュードという理想を追いながら、知らず知らずに他人の心を傷つけてしまっている。これこそが、ユマニチュードの理念に反するものではないのか。

 終盤におこなわれる、職員のパーソナリティを入居者に説明するプログラムという実験的なイベントでは、そんなソフィという一人の人物にフォーカスし、魂を持ったひとりの人間として、彼女の存在を祝福している。彼女のスキルや長い経験が、これまで施設を支えてきた土台であったという事実。そんな職員のヒストリーを入居者に説明する行為そのものが、じつはユマニチュードの本質だった。マリー=ルーが導入したプログラムは、結果としてソフィの魂を救い、同時にマリー自身の傲慢さをも浄化していく。この泥臭い和解とリスペクトのプロセスを、一緒に経験していく機会を、長い時間のなかで観客は得るのである。

 そして、さらなる祝祭の瞬間が訪れる。清宮吾朗のパフォーマンスから始まるカオティックな状況は、観客が参加する舞台演出やユマニチュード、身体への接触によるコミュニケーションなど、これまで描かれてきた要素が再配置されるとともに、その境界が溶けて一体化していくという、凄まじい奇跡が現出するのだ。それは、日本で同時期に公開された『サンキュー、チャック』(2024年)にも表現された、人生に一度訪れ得るかどうかの“完璧な瞬間”である。ここで初めて、真理が強い生への執着を見せるというのは、映画全体のトーンからすれば、あまりにドラマティックだったかもしれない。この演出が十全に成功しているかどうかはともかくとして、この一点に“生きる意味”という深刻な要素を凝縮させようとした困難な試みがあったことは確かだろう。

 筆者は、一度インタビュアーとして濱口監督と対峙したことがある。濱口監督は雄弁な一方で、自作を一つの理念や目的に回収されることに拒否感を抱いているように感じられた。それは、ある種二元論的に、自身の映画をはっきりと言語化して語られることを歓迎し、社会の理想を語ることが少なくない、西洋の映画人の感覚とは一線を画するものだという認識を持った。もちろん、言語化されたくないクリエイターはどこにでもいるのだが、言語化できない領域にクリエイティビティがあるという一種の宗教的確信というのは、ある意味で日本的、アジア的とも言える芸術への典型的な意識でもある。

 そうした意味では、西洋的な合理性や一貫した政治傾向を語るという点で、どちらかといえば西洋の監督と噛み合うことの多い筆者とは、やや意見がずれるところがあるようにも感じられた。とはいえ、そうした日本的な“あわい”にこそ何かがあるという感覚は、本作のような矛盾し対立する構造を崩し、境界そのものを無効化するという、ある意味での社会問題へのアジア的解決という、ユニークな希望に向かい出したのではないのか。その“捉えどころのない作風”が、逆に西洋的で明確な解決法を提示する……そうした驚くべき跳躍は、濱口監督にとっても一つの壁を破る挑戦だったのではないだろうか。

■公開情報
『急に具合が悪くなる』
全国公開中
出演:ヴィルジニー・エフィラ、岡本多緒、長塚京三、黒崎煌代
監督・脚本:濱口竜介
原作:宮野真生子・磯野真穂著『急に具合が悪くなる』(晶文社)
配給:ビターズ・エンド
提供:Soudain JPN Partners
製作:Cinefrance Studios、オフィス・シロウズ、ビターズ・エンド、Heimat Film、Tarantula
フランス=日本=ドイツ=ベルギー合作/196分/カラー/1.5:1
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