『ウィキッド 永遠の約束』舞台版との決定的な違いとは? 映像で暴かれた“2人の共謀”

『ウィキッド 永遠の約束』舞台版との違い

 2人の魔女エルファバ(シンシア・エリヴォ)とグリンダ(アリアナ・グランデ)の友情と決断を描く完結編、映画『ウィキッド 永遠の約束』が公開された。2026年公開の洋画作品として最速で興行収入10億円を突破し、前作『ウィキッド ふたりの魔女』を上回る勢いの大ヒットとなっている。本作は、2人がシズ大学で友情を育みながらも、決定的に異なる道を歩み始めるまでを描いた前作の続編だ。華やかな青春のきらめきが印象的だった前作に対し、今作ではオズの国を覆う政治的陰謀や社会の分断がより色濃く、生々しく描かれている。

 私が初めて原作ミュージカルを観たのは、日本初演の頃、まだ学生だったときだ。当時、強く心を動かされたのはエルファバだった。たとえ孤立しても己の正義を貫く彼女は、まさに孤独なヒーローに見えた。一方で、体制側に残るグリンダを身勝手に感じ、憤りを覚えたことも記憶している。しかし、何度も劇場へ足を運ぶ中で、その解釈は変わっていった。舞台版があえて描かなかった“余白”の中にこそ、グリンダの葛藤が隠されていたことに気づかされたからだ。舞台版は、その行間を観客それぞれの想像力に委ねることで、観るたびに異なる解釈を許容する深みを持っていた。

 これに対し、今回描かれた『ウィキッド 永遠の約束』では、スクリーンならではの“クローズアップ”を多用することで、観客をキャラクターの内面へと深く引きずり込む。カメラが捉えるのは、2人の魔女の微細な心の揺れだ。完結編となる本作は、私たちが長年舞台の行間から感じ取ってきたキャラクターたちの心の機微を、圧倒的な解像度で可視化していく。カメラという装置を通じて、私たちはエルファバとグリンダがどのようにして「悪」と「善」というラベルを貼られ、その役割を背負わされていくのかを、その息遣いとともに目撃することになるのだ。

 特に注目したいのは、エルファバが「悪い魔女」として規定されていくプロセスの具体性である。舞台版でも動物たちの迫害や情報操作は語られていたが、映画版ではそれがより剥き出しの“プロパガンダ”として提示される。魔女の恐怖を煽るポスターが何度もクローズアップされ、体制側に都合が悪いことが起こると「魔女の仕業だ」と民衆の恐怖を煽り立てる。特定のマイノリティを標的にして「共通の敵」を提示された民衆は、やがて思考を停止し、「作られた善」の物語に酔いしれていく。

 そこから浮かび上がるのは、「悪」とは個人の本質ではなく、社会にとって都合の悪い存在を排除するために多数派が貼る“レッテル”に過ぎないという視点だ。エルファバが受ける差別の視線をダイレクトに体感させられた観客は、プロパガンダに加担しかねない社会の一員として、その構造を突きつけられることになる。

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