『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』はなぜ“父性”という神話の崩壊を描いたのか?

『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』が12月19日に日米同時公開されたことを記念して、シリーズ第2弾『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』(以下、ウェイ・オブ・ウォーター)が、12月29日にフジテレビ系で地上波初放送される。2009年の『アバター』から13年ぶりに公開され、世界的メガヒットを記録した前作を踏まえて制作された本作は、公開当時から待望の続編として注目を集めてきた。
最新のSFXを投入し、水中という新たな領域へと踏み込んだ映像体験は、圧倒的なセンス・オブ・ワンダーに満ちている。映画史におけるひとつの到達点と言っていいだろう。しかし、作品を観終えたあとに強く残るのは、テクノロジーの記憶よりも、むしろ意外なほど生々しい感情の手触りだ。
ジェームズ・キャメロンは本作について、「この映画は家族についての物語であり、親の視点と子どもの視点、その両方から描かれている」と語っている(※1)。この映画は、かつて世界を救った英雄が父親になることに直面し、その役割に失敗していく過程を描いたファミリー・ストーリーなのだ。

前作『アバター』における主人公ジェイク・サリーは、選ばれし者だった。ナヴィの文化を理解し、族長の娘ネイティリを愛し、地球人(スカイ・ピープル)との戦いを勝利に導く。しかし13年後の続編で描かれるジェイクは、もはや神話的な英雄ではない。彼は夫であり、父であり、族長であり、守るべき家族を持つひとりの男だ。
彼は家族を思いやり、守ろうとしているが、その振る舞いはとても指揮官的。息子のネテヤムとロアクが「Yes、Sir」と応答していることからも、その関係性は親子というより、上官と部下に近い。ジェイクは元海兵隊員だったからこそ、戦場の論理をそのまま家庭に持ち込んでいるように見える。強くあれ、生き延びろ、命令に従え。確かにそれは戦士としては合理的な倫理だが、家庭においては、子どもを主体ではなく守るべき部下へと変えてしまう。

重要なのは、『ウェイ・オブ・ウォーター』がこの家父長的構造を、真正面から否定も肯定もしていないこと。決してジェイクは暴君ではないし、意図的に子どもを抑圧しているわけでもない。むしろ彼は、善意と責任感の塊のような父親ですらある。それでもなお、その善意がマチズモ的な価値観と結びついた瞬間、家族が歪んでしまう。
善意によって延命される、マチズモの危うさ。英雄ジェイクの価値体系が、父親という役割においては通用しなくなる。その瞬間を、この映画はきわめて静かに、しかし残酷なまでに描く。
「父親になると、人生に対する認識が完全に変わる。まさに、僕がこの脚本を書いていたときに向き合っていたのは、そこなんだ」(※2)という発言からも、ジェームズ・キャメロンがこのテーマを念頭に置いていたことが伺える。






















