『ペリリュー』はなぜ戦争映画のハードルを越えられた? “英雄譚”にしなかった物語の力

2025年、興行収入の面においても邦画界において大きな存在感を持つ、アニメーション映画。その中でも予告編公開時から異彩を放つのが、映画『ペリリュー ー楽園のゲルニカー』だ。
筆者は戦争映画も、デフォルメされたキャラクターデザインにはあまり馴染みがない。だからこそ、戦争映画なのに人物はかわいらしく描かれているというギャップについ興味をそそられた。蓋を開けてみると、本作は何より戦争映画として圧倒的に観やすく、それでいてかなり深い人物描写が魅力的で、物語そのものに惹き込まれて時間を忘れるほどの没入感がある。「食わず嫌いしなくてよかった」そんなふうに思う、その映像体験と作品の魅力を紹介したい。
久慈悟郎監督だからこそ生まれた、戦争映画の新境地
一見すると、その絵柄は日曜の朝に放送されている子ども向けアニメのようにも見える。丸みを帯びた3頭身のキャラクターたち、愛嬌のある表情……。しかし、彼らが手にしているのは銃であり、彼らが立っているのは、太平洋戦争末期、日本軍とアメリカ軍で繰り広げられた激戦の地・ペリリュー島だ。
シリーズ累計で確かなるヒットを記録し、高い評価を受け続けている漫画『ペリリュー 楽園のゲルニカ』。本作はその待望の劇場版アニメ化作品にあたる。原作は高く評価され、根強いファンがいる印象だが、確かに戦争をテーマにした作品としての革新性が映画を通していくつも浮かんでくる。その最たる特徴が、この“かわいらしいキャラクター造形”なのだ。

戦争映画や劇画調の作品に対して、「怖い」「グロテスクで直視できない」という忌避感を持つ人は少なくない。筆者も、その重々しさが苦手なタイプだ。しかし本作の絵柄は、まずその心理的なハードルを劇的に下げる役割を果たしている。入り口は広く、優しい。しかし、観客はすぐに気づくことになる。このかわいらしい絵柄こそが、戦争の狂気を際立たせる最も残酷な演出装置にもなっていることに。
本作はその絵柄からは想像もつかないくらい、普通にキャラクターの身体が吹き飛ぶし、欠損描写もある。「これを実写でやったら、相当なものが描かれている」。そんなことに早々に気づくと、デフォルメされているからこその観やすさと同時に、だからこそ悲惨なリアリティが包み隠さず描かれていることのギャップと魅力に惹き込まれるのだ。

あまりに悲惨な現実を直視し続けることは苦しいが、フィルターを通すことで、私たちは彼らの最期まで目を背けずに見届けることができる。実写ではなくアニメーションとして物語を描くこと、その意義が詰まった作品として本作は比類ない。監督の久慈悟郎は、これまでTVアニメ『妖怪ウォッチ』などの演出を手がけていたことから、“かわいらしいものに現実を語らせる”ことにおいて本作と非常に相性が良かったように思える。



















